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【創業の想い】ミャンマー政変が契機。リクルートから独立し、外国人事業で誰もが平等に、平和に暮らせる世の中を創る。

株式会社ASEAN HOUSE代表取締役の佐々です。
3年間勤めたリクルート退職を決意した本当のワケとASEAN HOUSE創業への想いを綴りたいと思います。

突然訪れた第二の故郷の「政変」

コロナ禍でいつものように自宅でリモートワークをし、うっすら目を覚ました2/1の明け方。
いきなり事件は起きました。
ミャンマー軍が民主政権を掌握し、ミャンマー実質上トップのアウン・サン・スー・チー氏を始めとしたNLD政権の何人もが拘束されました。
いきなりテレビは軍が運営する一局だけになり、インターネットも遮断。
そのような状況に対して、市民は2/1以降徐々に町中でデモを行ったり、CDMという国軍への不服従運動を起こし始めました。

その様相に対抗するかのように軍部は市民に発砲したり、令状なしでデモ主導者を連行したり、終いには凶悪犯含む囚人2.3万人を市内に解放して放火や盗難を誘導したりと治安悪化によるデモの沈静化を試みるなど、これまで1,500人以上を殺害。(2022/1現在)
僕のFcebookのタイムラインには、つい先日まで世界一平和だったヤンゴンの道中が日に日に変貌していき、この世とは思えない光景が広がっていきました。(私が2017年に起業した会社もマスメディアとして大変難しい判断を迫られ、無期限の業務停止という状態に至りました)
そして、2015年以来深く関わり続けたミャンマーからの”Help me”のメッセージが絶えずiPhoneには届き、正直リクルートの仕事は手に付かない状況となりました。

「Sasa、今から捕まってしまった友達を救いに牢屋まで行ってくるから連絡が取れなくなるかもしれない。」
「軍が発電所を掌握しようとしているから戦いに行ってくるよ。」
「大切な家族が犠牲になってしまった。どうしたらいいかわからないよ。」

世界一平和だった第二の故郷であるミャンマーが日に日に変貌していくこの世とは思えないようなその事態に対して何もできない自分のやるせなさに苛まれ、人生で初めて鬱のような状態になりました。

自分にできることはミャンマー人の雇用機会の最大化

そんな時、東京にいるミャンマー人と呑む機会があり、彼の言葉にハッとしたのを今でも覚えています。

「ミャンマーの故郷の友達はみんな戦闘の用意をしていて僕は加勢できなくて心苦しいけど、立ち止まっていても仕方がない。俺は駅前でのデモや募金活動などできることをやるよ。」

私はどうだろうか?自分にとってできることってどんなことだろうか?

私は2019年より東南アジア人と日本人が一緒に暮らすシェアハウス”ASEAN HOUSE”の運営をスタートしていました。
そのASEAN HOUSEはコロナの影響で空室が目立っていました。一方でクーデターの影響で母国に帰れなくなってしまったミャンマー人も多くいるという情報も入っていました。

「よし、帰れなくなってしまったミャンマー人の受け入れを開始しよう。」

Facebookでミャンマー語の字幕をつけて動画で告知した結果、プチバズリを起こし150シェア以上を記録。
その後ミャンマー人の入居が相次ぎ途端に空室はなくなりました。

その他にも、クーデターから少し時間が経った頃になるとミャンマー現地の友人から「日本で働きたい」という声が沢山届くようになりました。
ミャンマー経済は麻痺し働く場所は失われ、国外に生活費と経験を得るべく労働環境を求めて移住する若者が溢れ返っていました。

確かに、ミャンマーの友人が拘束されたり行方不明になったりしているこの状況を変える、「革命を起こす」ことを諦めることはできない。
でも冷静になった時に私ができる最大限の価値とは何なのか?私の役割とは何なのか?
真剣に考えた結果、『日本に働きに来たいミャンマー人の雇用機会を最大化し、近年来たる革命への力を蓄える手助けをすること』でした。

明治維新だって、ただ闘って新政権を樹立したのではないと思います。
常に他国の先進的な知識を吸収し、皆が平等に、平和に暮らせる世の中を創ることを夢見て必死で他国で頑張っていた薩長の人々がいたからこそ、達成できたのです。

そんなミャンマーの若き獅子たちが日本で十分に英気を養い次の闘いに備えられるよう、外国人へ仕事を紹介する事業者として精一杯サポートしたいと思いました。
そうして、私は外国人の人材紹介事業を開始することを決意し、正式にASEAN HOUSEを法人成りさせ、シェアハウス事業と共に事業を拡大させていくことにしました。

幅広く経験させて頂いた大好きなリクルート退社を決意

こちらのブログでも綴っているようにミャンマーでの学生起業を経験していた当時の私は「最強の営業力」と「日本としての器」を手に入れて将来もっと社会に大きなインパクトを与えられる会社を創るために会社を受け渡し(子会社化→譲渡)、日本へ帰国、リクルートに就職しました。
リクルートでは1年目は旅行サイト「じゃらん」のお客様であるホテル・旅館様向けにネット広告・雑誌広告の営業メンバーとして東京・横浜エリアを担当し、ホテルの予約数や売上を最大化するべく邁進してきました。
「ミャンマーで学生起業してたから余裕っしょ」と正直最初は思っており、社内では見事『斜にカマー』の称号を拝命致しました。そんなスタンスでは当然営業成績は伸びず最初は苦労しましたが、一度謙虚になり吸収し続けた結果安定して全国でも上位の成績を収めることができました。
その後は希望でもあったSaaS新規事業の立ち上げメンバーとして、営業・CS・企画と様々な業務に関わり、自らの営業スキルセットに特化して学び続けた広告営業とはまた違い、一つのプロダクトを全体感を見て調整しながら創っていく事業開発視点を養わせて頂きました。

このように、新卒で入ってから温かく育てて頂いて非常に恵まれた環境で様々な経験を積ませて頂いており、リクルート人生も非常に刺激的なものでした。

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
「圧倒的当事者意識」
「お前はどうしたいの?」(社内で愚痴ってたら大体これを間髪挟まず言われます笑)

最近はそこまで口にしなくなったけど、代々ひっそりと語り継がれるその言葉一つ一つに、恐らく創業者江副さんの時代から繋がるリクルートの文化が刻み込まれているのだと思います。なんなら私は好きすぎて、ASEAN HOUSEの会社モットーを「自ら機会を創り出せ」にしてしまいました。笑

他人のため、社会のためなど「綺麗事」を並べず、結局は何においても一番大切である、「自分がどうしたいか、どう生きたいのか」を常に問いかけ続けられる言葉、文化なんだと思います。
その文化に育まれ、吸い寄せられ、嘘偽りなく無邪気で自分のwillに対して真っ直ぐで破天荒な「人」が沢山在籍し、そんな「人」たちが社会を魅了し続け、周り周って他人を、社会を変えてきたのだと思います。(日本中から非難を浴びたあの「リクルート事件」から立ち上がり時価総額No.5(2022/1時点)の会社まで復活できたのは本当にすごい。)
そしてこれからも変えていくのだと思います。

私は生まれ変わっても絶対リクルートに新卒で入社すると思いますし、自らの会社はリクルートのような会社にしたいと心底思っております。

しかし、そんな大好きなリクルートを退職。

理由は単純です。
リクルートの仕事より、ワクワクし、自分が必要とされている仕事があるからです。
自分にしかできない仕事がそこにあるからです。

たしかに、当初の目的を達成するためにリクルートにあと2年くらいは在籍しようと考えていました。
そのままリクルートで働きながら、副業として外国人関連事業を続ける選択肢もありました。(むしろその方がリスクは軽減できるのでみんなそうするはず)

しかし、やはりミャンマークーデターがその契機でした。
大切な第二の故郷が、大切な友人が、大切な思い出が、どんどん崩されていってしまう。
見るに見兼ねない状況が目の前にあり、そして私に助けを求める人も沢山おりました。
私がもっとこのASEAN HOUSE事業にコミットすることによって、巡り巡って殺されてしまう人を少しでも減らすことができるかもしれない。

平和なミャンマーを、平和な世界を創ることができるかもしれない。

今しかないと決心し、次の日には退職を告げ2022年1月をもってリクルート人生に別れを告げることになりました。

今までのリクルート人生でお世話になった全ての方々に敬意を表しつつ、元リクルートとして必ず株式会社ASEAN HOUSEを社会に大きなインパクトを残せる大きな会社にしてリクルートに、リクルートの皆さんに恩返しできるよう頑張って参りたいと思います。

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