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【創業記】元気のインフラを作ることに、人生を懸けてみることにした。

こんにちは!BNGパートナーズの坂脇です。

今年の夏は多くの採用イベントに参加させてもらいました。BNGパートナーズの大切にしている志のお話や事業の話、働いているメンバーの話など限られた時間の中でお話してきました。その中でも必ず毎回する話と言えば「何故BNGパートナーズを創業したのか」という蔵元のお話。

起業する人って何かを解決したい、もっとより良くしたい、等何かしらの想いを持って行動すると思うのですが、蔵元がBNGパートナーズを創業したのにもいくつかの要因がありました。その中でも最も蔵元の人生を変えた出来事をお話できればと思います。


「勝てば官軍」「I am 俺」…勝つ事に人生を懸けていた時期

出来事は1999年に遡ります。その時、蔵元は社会人3年目でした。まだ人材業界ではなく、某金融機関で働いており、東京本社企画部企画一課という花形部署に務めていました。1,2年目での働きを高く評価してもらい、最年少役員が蔵元を引っ張ってくれたようです。その最年少役員の方は、今ではその金融機関にて社長をやっていられるようです。

そして当時の蔵元は完全に勘違いをしていた、といつも語ります。
どのように勘違いかというと、「自分自身を優秀な人材と思っていたこと」だそうです。

幼少期から勉強もスポーツも得意で、社会人になってからも仕事で成果を出して。内定者代表挨拶も行い、最年少役員に抜擢されるくらいの成果も出して。。

当時の座右の銘は「勝てば官軍」。
※勝てば官軍負ければ賊軍とは、何事も強い者や最終的に勝ったものが正義とされることのたとえ。

勝つ事に人生の全てを懸けていて、キャッチコピーも「I am 俺」…。この時の蔵元であれば一生BNGパートナーズは出来なかった気がします(笑)。しかしヒョンなことから「出世頭」の地位を捨てて、突然退職します。その後の事は何も考えていなかったようです。


一生の思い出に残る、日本海ヒッチハイクでの帰郷

鹿児島出身の蔵元は、ご両親に電話で退職した事を話します。ただ、顔をつき合わせて仁義を通さないと、と思った蔵元は一旦帰郷する事を考えますが、何故かここで生来のベンチャー魂が顔を出します(笑)。

「普通に鹿児島に帰っても面白くないな」

当時数年前まで放送していた「電波少年」を思い出し、猿岩石が香港からロンドンまでヒッチハイクで行く企画が脳裏をよぎったようです。「飛行機や新幹線で鹿児島に行くことは人生で何度もあるだろう。せっかくの機会だから、自分も野宿とヒッチハイクで鹿児島まで行ってみよう。どうせだから東海道ではなく、日本海側を行ってみよう」

…。私なら普通に帰って美味しいものでも実家で食べよう、位にしか思わないんですけど、起業家は何をしでかすかわかりませんね。笑

そして7月の下旬に当時働いていた金融機関の大手町本社からヒッチハイクがスタートしました。タンクトップにリュックサック、当時流行っていたREDwingのブーツで旅立ったそうです。


優秀なのは、自分ではなくインフラ

「東京では空が上にあるけど、地方では空が前にある」
「そういえば屋根って三角」

旅路で気付いた事を日記につづりながら、灼熱の太陽の下、野宿の度を楽しんでいた蔵元は、道中安くて栄養満点の「月見うどん」ばかり食べていたようです。そして5日目か6日目くらいに、新潟から富山に向かうあたりで人生を大きく変える出来事に出遭います。

道に迷ってしまいました。

徒歩で民家も無く、車も通らない道を歩いて。空腹も限界でした。毎日食べていた月見うどんすら手に入れることが出来ませんでした。ポケットの中には十分な現金も入っているのに、月見うどんを手に入れれない…。夕方、どこかの海水浴場に辿り着き、無料のシャワーを浴びる事ができました。変えの服も少ないので、服を着たまま浴びて、日が沈みだすと少しだけ涼しくなってきました。

ふと昼間の出来事を思い出します。

なぜ月見うどんを手に入れれなかったのか。幼少期から勉強もスポーツも得意で、仕事もトップクラスで、ポケットの中には十分な現金も入っている。しかし蔵元は月見うどんを手に入れることが出来ませんでした。

そこで気づいたこと。

それは自分は何でも出来ると思っていたけど、一人では何も出来ないという事実。
今まで、自分が優秀だと思っていたが、優秀なのはインフラであるということ。
何も出来ない僕でも成果が出せるインフラの凄さを痛感したのは、このときが初めてでした。

元気のインフラを作ることに人生を懸けてみた。

この出来事により、蔵元は人生を変えようと決意しました。

太平洋戦争に行って帰ってきた父方の祖父と、シベリアでの拘留から生還した母方の祖父、そして祖父たちを支えた祖母たち。焼け野原の日本を復興させた先輩たちが心の底からカッコイイと思った。そして、そのインフラの上でカン違いをしている自分を激しくかっこ悪いと思い、そこから自分の人生を変えようと決心したと語ります。「勝つ」ことに人生を懸けるのではなく、「インフラを作る」ことに人生を懸けてみようと。

その後、蔵元は今はもう無いベンチャー企業に就職し新規事業の開発に従事しました。とにかくインフラを作りたいと考えて、そうもがいている中で、最も必要なのは「元気のインフラ」だと思うようになったそうです。

その後、その「元気のインフラ」はブラッシュアップされて「」という言葉に表現されるようになりました。

あれから18年、どれくらい「元気のインフラ」を作れたでしょう。

まだまだ理想には程遠い。でも、いまBNGパートナーズがしていることの延長線上、300年後くらいには世界中の人を志で埋め尽くしているイメージが既にあります。おそらく、というかほぼ確実に、300年後の世界を私たち自身は見ることが出来ないだろうけど、いまこうして祖父たちのように日本を、そして世界を元気にしている自分たちは、少しだけカッコイイと思えるようになってきました。

BNGパートナーズはベンチャー企業ではありません。10年で世界を変えようとはしていない。300年かけて、最も大事なことに取り組むエクセレントカンパニーです。もし蔵元の原体験を読んでいただいて、一緒に「元気のインフラ」を作りたいと思ってくれる人が居たら、ぜひお会いしましょう!

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