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透明な医療で病気と闘う

医師は診察中、パソコンに向かって何を書き込んでいるんだろう、カルテに何を書いているんだろう、と感じたことはないでしょうか。あるいは、病院の会計が思いもよらない高額で驚いたり、明細が意味不明でため息をついたことはないでしょうか。その程度ならまだ良いとして、根本的に診療内容に疑問を抱きながらも、どうしていいか分からず、とりあえず治療を受けてしまったり、出された薬を飲んだり、あるいは不安で勝手にやめたりするとなると、かなり怖い話です。

これらは、情報公開以外に解決しようがありません。いや実は、情報の公開は、保障されています。しかし、カルテをそのまま読んでも、ほぼ暗号です。あまりに分からない。これを、医療者と患者間での情報の非対称性だの、インフォームドコンセントの欠如だの、色々な言い方をします。

しかし、やっぱり、情報公開と徹底的な説明以外に、解決しようがありません。インターネットを始め、「病院外」の情報化が急激に進んだことも後押しして、患者さんもよく勉強されています。今では「病名を告知しない」スタイルは、過去の歴史となりました。

大前提を確認しましょう。一つ、全ての情報は、医師や病院のものではなく、患者さん本人のものであるということ。検査結果も、カルテも、治療内容も、何もかも、です。もう一つ、医療者側の持っている知識と、一般に入手しうる情報には、あまりにも差がある上に、その差はさらに開きつつあります。医学の専門分化が進んだ結果です。

最初の個人情報の話です。様々な歴史を経て、現在は、医療情報は全て患者さん本人のものである、という感覚は、わりと社会全体に共有されているように感じます。病院はあくまで保管場所。しかし、リアルタイムで全ての情報を患者側からアクセスすることは、いまだに困難です。唯一の方法はカルテ開示の手続きです。これはお互いに大変な作業です。電子カルテが普及していますから、スマホからも本人が簡単にアクセスできればいいな、と私は思いますが、これは現時点では課題が多すぎて、ほぼ不可能です。また、医師の説明をメモする代わりに録音される方も珍しくなくなりましたが、備忘録としても、透明性としても、最初から全て動画で保存し共有できたらいいな、とも思います。いやいや、こう書くと、ざわつく医療関係者もいらっしゃることでしょう。しかし若い世代の医療関係者は、最初からそういう医学教育を受けて育っていますし、見られて困るような診療は私の周りではあまり見かけませんので、医療者側、患者側とも、全て透明にする方向性は、正しいはずです。

もう一つ、専門職と一般の方の情報の差、いわゆる情報の非対称性についてです。これはもう、どうしようもない。むしろそれが無ければ専門職は不要です。医療行為とは、膨大な知識と、判断力の結晶です。「医者の見立て」という古い言葉がありますが、現代ほど医療の専門化とマニュアル化、標準化が進んでしまうと、もはや医師には見立てより、コンサルティングやコーチングの能力が試されるように思います。もちろん標準治療や、ガイドラインや、根本的な医学的知識など「見立て」に該当する部分が不十分では、医師として論外ですが。

情報公開で全て済む訳では全くありません。最終的には、医師と患者のお互いの信頼関係無くして、病気には立ち向かえません。病気は「合理的な判断」だけで解決できるほど甘くありません。「決意」と「勇気」が必要です。ですから、情報公開は信頼関係を築く一つの手段なのです。例えば、血液検査結果を公開したところで、健康にはなれません。データより、その解釈の方が遥かに大切なのです。あるいは、私の専門である脳神経系については、患者さんの服装、歩き方、話す内容、私の雑談への反応だけで診断がつくこともあります。それらはパターン認識と呼ばれるもので、私はそれをいちいち専門用語でカルテに書くわけですが、本人を見ずにそのカルテだけ見ても、第三者には診察の評価が極めて難しいと思います。

しかし、それでも情報は最も簡単な方法で開示されるべきです。私は医療の透明化にこだわります。情報は、医療者と患者さんを結び、病気を倒す最大の武器になるからです。

余談ですが、医学は語学に似ていると常々感じます。解剖学は単語であり、生理学は文法です。医学生のゴールは筆記できるようになることであり、医師にはネイティブスピーカーのように会話できることが求められます。難しい映画のセリフは、調べるよりネイティブに聞いた方が早いこともよくありますよね。そんな時はどんどん医師に質問なさってください。

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