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◆代表者インタビュー◆田舎育ちの僕がARAVAGOLF事業に取り組むワケ。


はじめまして、ARAVAGOLF社長の木村優一と申します。

弊社ストーリーにお立ち寄りありがとうございます、ご縁に感謝します。

ここでは、私がどのようにスポーツに関わるようになりどうして今、フルDXの世界最新鋭のスポーツ施設づくりに

夢中になっているのか? その原点をお話させて頂ければと思います。


夢見る田舎少年

私は1976年岐阜県の片田舎、人口2万人程度の町で生まれした。

3人兄弟の末っ子ということもあり、甘やかされて育っていました。

親が子供向けのオモチャ製造業を営んでいたこともあり、物心ついた時から国内だけなく海外のオモチャに囲まれ育つという、今思えば不思議な環境で育っています。

小学校5年生まで、あまり子供のころの記憶がないのですが、覚えていることといえば自分のお気に入りのオモチャが一杯に詰まったダンボール飛び込む、なにやらゴソゴソと永遠遊んでいる、そんな至福の時を思い出します。


小学校6年生で夜逃げ準備

そんな日々がある日突然、一変してしまうのです。

私が小学校6年生になったころ、世の中ではいわゆるバブル崩壊が起きていたのです。

ご多分にもれず、私の親が取り組んでいた事業も大きな影響を受け、ある日突然【倒産】してしまいます。

母親の指示で夜逃げ準備しながら、不安な気持ちで一杯になりながら夜空を見上げていました。


神様に頬をビンタされ目が覚める

裕福に育つというのは、一見幸せにみえるかもしれませんが意外とそうではありません。

自家用車は半年に1度は最新モデルに代わるものだと思っていたし、運転してくれるおじさんがいるのも普通、ガソリンも自宅まで入れに来てくれていました。

高級なすし職人が握る寿司も、フレンチも、それが外食だと思っていました。

本人の意図に関わらず、裕福な環境が当たり前で育ってしまっていた私は、それまで何かに情熱を燃やす、ということもなく、なんとなくその場その場で楽しそうなことを自分勝手にしている日々。

お金のありがたみも、人様のありがたみ=感謝 も感じることなく過ごしていました。

ただ、人に危害を加えるような人間ではなかったので、世の中にとっては無害でなんのとりえもなくクラスでも目立たない存在だったと思います、運動がやや出来て、絵をかくのが好き、そんなどこにでいる子供でした。

会社は倒産し(厳密には整理解散だったと思います)3億円の借金を背負い込むことで夜逃げは免れた木村家は、その後私が26歳になるまで、一族全員で借金を返すだけの日々を過ごすことになります。

一般的には、こんな話を聞くと『不幸ね、、』と思われるかもしれませんが、

私にとっては、この時から自分の人生がはじまったのです。

人生を自分事として捉え、真剣に日々と向き合い、そこではじめて

『お金のありがたみ』『人様がいて自分が存在している』

そんな当たり前のことに気づかせてもらえました。

神様の強烈な往復ビンタでしたが、一生懸命に生きる人間になれたことに心から感謝しています。


働かなきゃ!

もともと勉強ができたタイプではなかったので、とにもかくにも早く社会に出て稼ぎたい、そんな思いが強くなっていました。

ビジネスで起こったことは10年以上前のことでも明確に記憶しているのに、受験勉強となると何故か記憶できない、、涙

なので地元の高専の受験に失敗するなど、その後、紆余曲折あった中、学校の先生の紹介もあり、

給与をもらいながら手に職をつけることができるトヨタ自動車グループ各社が持つ職業訓練校(学園)という存在を知るのです。

今から思えば、この職業訓練校は現場の管理者養成所のような位置づけで、ここを卒業しても現場の班長さんになれるかどうかといったルートではあったのですが、

自分には他に選択肢もなく、自宅から通えて、学園をもっているトヨタ系企業ということで東海理化という車の内装設計をしている会社の学園に行くことにしました。


ものづくり東海理化時代

学園では初めて初日から卒業まで、1日も手を抜くことなく自分にできることを精一杯やってみました。

そのおかげか、私以外全員が現場に配属される中で、試作部という魅力的な部署に配属していただくことになります。

私のような学歴がない人間は少なく、基本的に品が良く(笑)みなさん素晴らしい経歴の方が集まる会社だったので、若くて知識もない私を温かく育ててくれた、そんなインキュベートな職場でした。

与えられた仕事も、初代プリウスのインパネ部品を世界で初めて3Dプリンター(光造形機といいます)で製作するなど、初月から自動車産業の最先端の仕事ができることに気づき大興奮。

くる日もくる日も、新型車の開発に関わることができ、あっという間に時が流れていきました。


技術企画部での経験が大きな財産に。

26歳を過ぎるころ、子供のころから背負っていた実家の借金返済も完済。ようやく空から重くのしかかっていた重荷が取れた気がしました。

そのころ、トヨタグループ全体がグローバル競争の波にさらされており、激化する世界競争の中、競合他社の分析や、グループ各社が下請け的ポジションではなく、それぞれ専業メーカーとして提案力が問われる時代に突中していきました。

そこで、私を可愛がってくれていた上司の方がリーダーとなり、社内に世界の競合他社を分析するベンチマーク業務や試作実験段階からトヨタ本体に積極的に提案していく部署が役員主導で立ち上がることになりました。

技術企画部という職場を与えてもらい、すでに3DCAD全盛になっていた土壌の先としてCAE(コンピューターを使ったシミュレーション解析)や世界中の自動車部品のベンチマーク、新しい自動車社会に求められる製品企画やアイデア提案など、今にも繋がる貴重な経験をさせてもらえました。

まったく学歴のない自分がこのような仕事に取組み活躍できる職場を与えてくれたことに、今も感謝し続けています。東海理化さん本当にありがとうございます、借金も返すことが出来、さらに真剣な学びの場を与え続けてくれたこと、毎日世の中の為に懸命に働くことの習慣化、あなた方は私の心の恩人です。


突然ですが、『会社選び』って大事だよね

少し話がそれますが、私は数奇な運命の中、学歴もないのに当時の世界最先端の職場で経験を積むことができ非常に幸運でした。

やはり、若ければ若いほど、特に30代前半までに仕事を通じて体験したこと、というのはその人のキャリア形成において、良くも悪くも非常に大きな影響を与えると思います。

私の経営する会社は、明らかにトヨタ的業務の進め方、思考がベースとなっています。

『必要な時に必要なモノを』『自働化』『なぜを3回繰り返す』『品質保証』

どれをとっても、私自身が現場の仕事を通じて経験させていただいたことばかりで、自分の骨や肉や血となっています。鉄は熱いうちに打て、だと思います。

この本文を読んでくださっている方は、転職や就職をお考えだと思います。

ぜひ、学歴や経歴、実績をひっさげてアップデートしていける企業文化のある会社を選んでくださいね。


起業

28歳になった頃、私を可愛がってくれていた上司や役員の方が私の未来を心配してくれるようになっていました。

人によっては、『仕事の差別はしないが、仕組上給与の差別はどうしても続くぞ』とまで言ってくれる上司もみえました。

又、20歳のころから週末のボランティアで主催していた地元のサッカークラブが会員200名を超え、正直運営が回らなくなっていました。

もちろん、ボランティアでご飯を食べていくことが出来るわけないのですが、ちょうどNPO法が可決され社会起業家が注目を集めている時代でもありました。

今の私ではまったく考えられないのですが、なんの計画性もないまま無鉄砲に会社を辞め、NPO法人で市民スポーツクラブを立ち上げ起業することにしたのです。


失敗の連続、2年で貯金ゼロに、、、

当時、意気投合した仲間3人を加え4名で立ち上げた市民スポーツクラブでしたが、行政のスポーツ施設を間借りしている状況で、開催日も開催場所も非常に不安定。さらに参加した時だけ参加費をもらうという最悪なフロービジネスとなっていました。

借金返済から退職金含め2年間で貯めたお金800万円元手にスタートした起業でしたが、1年で半分以上を失い、給与も払えなくなり、又、4名でやる仕事がイメージできないという、、経営者失格状態。

一緒に始めた仲間も去っていき、一人どうしたらいいのか途方に暮れました。

そこで、素人経営者ながら考えたのは、行政スポーツ施設の間借りではなく、普通の民間スポーツクラブのように、毎日人が集まれる場所を思い切って確保することにしました。

立派なスポーツ施設を更地から建設するなんて、まったく想像もできなかったので、その時の頭で精一杯考えたのは、大きな倉庫を借りて、その倉庫内に人工芝を張ってスポーツ施設にすることでした。

確かその時、手元にあった残り資金は180万円程度、、

たまたま運よく出てきた大東建託さん管理の大きな倉庫物件を借りるのに、敷金礼金でほぼほぼ資金がなくなってしまいました。(毎日カレー生活のはじまり、、苦笑)

ただ、当時はまだフットサルブームで、レンタルコートを中心に稼働し始め、自分の給与はまだでないまでも何とか家賃代は支払えるようになっていきました。

月日がながれ、1年くらい経ったころ会社勤めしていたころのベンチマーク手法(他社分析)を思い出し、普及してきたインターネット(当時はまだADSL)を使って、世の中のスポーツクラブはどうやって売上を上げているのか調べるようになりました。


失敗まとめ

①そもそもボランティアやNPOで起業したこと自体ムリゲーのはじまり。

・今でこそ、NPOへの銀行融資は可能となりましたが、当時NPO法が成立したばかりで、特に地方都市においては融資を受けることは不可能な状況だった。

・普通に考えて、株式会社でも新設法人に対して銀行融資は慎重でかなりハードルが高い

・代表者の私が経営実績ゼロ。(実際経営的戦闘力ゼロ、、涙)銀行側もNPOに対して融資実績ゼロ。


②ありあまる現金(節税しないといけないくらいキャッシュが有り余っている状態)でない限り、基本的に現金を使用して設備投資を行ってはならない。という経営の基本知識の欠落。

特に私の場合は、大東建託保有の大きな倉庫を借りる敷金に貴重な限られた初期資金を入れてしまうという失策、、敷金は決算書の資産には計上されているが、実質一切使用できない資金なので現実的には失った資金と一緒。。逆に、銀行は運転資金とは異なり、使途明確な敷金や設備投資に対して融資は比較的つきやすい。


③毎月、お金の支払いに追われると、冷静に『なんのための事業なのか?』を客観的に考える余裕もなく、悪循環に陥る。。


起業後、はじめのチャンス。

岐阜県認定総合型地域スポーツクラブとして認定を受ける

当時、すでに民間のスポーツクラブとしては、コナミスポーツさんや地元ではアクトスさんのような大手スポーツクラブが事業展開しており、小さなスポーツクラブとして、どうやって生き抜いていくのか試行錯誤していました。他社分析結果では、プールとジムを中核にスクール事業を行っているのが基本パターンだと気づきました。

一方、自分を棚卸してみたところ、子供のころから球技が大好きでサッカー、テニス、バスケなどの球技に特化したスポーツクラブがつくれないか、特に、子供の教育に関わる仕事がしたいという想いもあり

保有するフットサル場をベースに、行政スポーツ施設も併用しながらそうした方向で事業が形づくられていきました。

話は前後しますが、ちょうど独立してがむしゃらになって色々な人に出会い、ご紹介していただく中で不思議なご縁が繋がっていきました。

政治家でいえば、すでにお亡くなりになりましたが元岐阜県知事の梶原拓氏、現市長の柴橋市長(まだ政治家になる前で、彼も勤めていた銀行を辞めたばかりでした)、投資家のグロービス代表堀さん、起業家GMS中島さん(当時ゼロスポーツ)、FC岐阜ユースを立ち上げた平田さん、おんぱく蒲さん、のちにやななをプロデュースしていく佐藤さんなど、今思い返せば本当に人とのご縁とは不思議なものです。

梶原さんのご紹介で、当時岐阜県スポーツ振興の責任者を務められていた石榑さんと出会い、想いを熱烈に伝えたところ、非常に感銘をいただき共感いただけました。

すると、その3カ月ほど後に岐阜県から『岐阜県認定総合型スポーツクラブに認定する』という通達があり大変驚きました。石榑さんに問い合わせた所、ちょうど日本の国策でヨーロッパ型のような総合型地域スポーツクラブをつくる施策があり、岐阜県も今年度から正式に各市町ごとに総合型スポーツクラブを仕組化していく、とのことでした。

振り返ってみると、ただの偶然とはいえ、全国的にも民間設立にて県認定の総合型地域スポーツクラブになったクラブは非常に珍しい事例となりました。おかげさまで県保有のスポーツ施設は優先的に使用できるようになり、その後18年間に渡り2,000名以上の子供たちの育成に関わらせて頂き、東海大会や全国大会へ出場していく選手を多数輩出していく球技特化型総合スポーツクラブの基盤となりました。

何を知っているか < 誰を知っているか


子供たちの育成で感じたこと、学んだこと

最初の10年間、私たちは『子供たちの無限の可能性を引き出す』ことを経営理念に掲げ子供たちと向き合ってきました。やるからには岐阜の地方都市からでも日本一の選手を育成したい!そんな情熱をもって子供向けのスクール事業に取り組みはじめます。

下は年中さんから上は小学6年生まで(選手コースの生徒は中学3年まで)自分の子供のように愛情をもて毎日子供たちと向き合いレッスンしていました。成長する子、伸び悩む子など多くの子供たちをみてきました。

その中、指導者としても転機を迎えていくことになります。

大きな影響を受けた指導者は海外の指導者も含め複数名みえますが、(今も現役の指導者として活躍されているかたもみえますので、、名前は挙げれませんが。。)トップレベルの指導者は、皆ある程度共通の認識を持っていて、可能性を引き出す=ポテンシャルという視点より、もともと選手の持っている力、のちの活躍している姿、その選手のピークパフォーマンスがある程度みえている感じている。という視点です。

もちろん、どの一流の指導者も、各スポーツに対する知識の深さはもちろんのこと、指導方法も様々なノウハウ、メソッドを確立されており生徒が成長していける環境も整えているのですが、

育成に対する考え方は、私が思っていた以上に、ある意味ドライで語弊を恐れずに言えば、『瞬時に、その選手の未来のピークパフォーマンス限界値』をみえている感じでした。ロマンティストではなくリアリスト。

スポーツなので、各スポーツの特性に応じた身体能力(特にフィジカル)がある一定以上の条件を満たしているかは絶対条件。フィジカルが満たしていたとしても、次にメンタル面がそのスポーツに合っているか最後まで耐え抜いて自学自習していける人物なのかを目利きしている、そんな視点からスカウティングしていることに気がつきました。

いいかえれば、=スカウティングが全て。

指導者、先生が素敵であれば、誰だって一流の選手になる。そんな淡い想いを抱いていた自分は現実がわかればわかるほど、結果の出し方がわかればわかるほど理想と現実の違いを強く認識するようになっていきました。


結果を出す人材とは

長い年月、スポーツを通じて人の成長に携わらせてもらいました。結果を出すために重要なポイントは↓

①人生のピークパフォーマンスが高い人物をスカウトしてくる=スカウト力(目利き力)

②環境を整える=お金が必要=資本力(スポーツに限らず全ての人間界同じ)

あれ?これってビジネスも同じだよね。


子供ごし、親と一緒に三角関係で闘う。から自分が戦う人生に。

私は自身の子供時代のトラウマから、どうしても市場原理から距離をおくような人生を送ってきました。

ものづくりに夢中になったのも、子供たちと関わり毎日スポーツの世界に没頭したのも、言い換えれば資本主義社会から目を背けて生きたのだと。

2017年にたまたま当クラブでバスケをはじめた女の子が安江先生率いる岐阜女子高校にて日本一になり、18年かかりましたがスクール開設当初の夢も叶い、心の一区切りとなりました。

その時から、『私自身の子供時代のトラウマと向き合い乗り越えよう』『子供たちごしに闘うのではなく、自分自身が資本主義社会と向き合い闘う人生にしよう』と自然に思えるようになりました。

2019年から、育成途中だった生徒たち親さんに大変なご迷惑をかけながら、長年取り組んできた子供たちスクール育成事業の縮小に取組みだし、同時に新会社を設立、ビジネスの世界に飛び込んでいきました。


権利ビジネス

いわゆるランチェスター戦略から考え、弱者が強者と戦っていくにはどのような戦略が必要か。

そこで私達が頼りにしたのが権利ビジネス。

2019年末に立ち上げた共感マーケティングという会社のコアは、セクウェイナインボット社の日本国内イベント興行権を取得する。ところからスタートしました。

順調に事業がスタートし、体感型マーケティングが市場に受け入れられ、ガリバーさん、トヨペットさんからお仕事をいただけたり、日本女子バスケットボールリーグオールスター、ソフトバンク優勝パレード、などの業務も受注するなど、初月から2,000万円を超える受注となるなど順調な滑り出しとなりました。

ところが、、、


2020年 新型コロナウィルス発生。

ミニッツラウンドゴルフ株式会社では一緒に働く仲間を募集しています
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