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新卒入社したサイバーを2ヶ月で退職して唯一無二のキャリアを歩む23歳!未来の事業部長【高校偏差値70から浪人監獄生活を経て】

経歴

1999年8月26日 秋田県に生まれる
2006年4月 小学校に入学
2007年1月 兄と同じ部活だと管理がしやすいからと強制的にバスケ部入部。
      鬼の体罰ときつい練習に耐える日々
2012年1月 部活の副主将に就任
      体罰に慣れたことで、監督の平手打ちを交わす事例が発生 
2012年4月 秋大附属中学校に入学
2013年1月 秋田キャンパス21という塾に入塾し、恩師である塾長に出会う。
2013年10月 学校祭の「のど自慢」で、友人二人と海パン一丁で「青い珊瑚礁」を熱唱し悲鳴か声援のどちらかを大量に浴びる
2014年6月 バスケ部の主将に任命される
2015年4月 県立秋田高校に入学
      ラグビー部の先輩方から鬼の勧誘をされるもバスケ部に入部
2017年6月 インハイ予選ベスト8で引退
2018年1月 3年間で計23時間しか勉強しなかったツケが周り、センター大失敗
2018年3月 河合塾仙台校で浪人
      精鋭寮という名の監獄で一年間修行する
2019年4月 千葉大学法政経学部入学
大学生活  授業のかわりに飲み会に出席し、脂肪という名の単位を得る
2021年1月 営業の長期インターンを開始
2022年2月 株式会社サイバーエージェントから内定
2023年3月 ギリギリで大学卒業 
2023年4月 株式会社サイバーエージェントに新卒入社
      インターネット広告事業第一本部に配属
2023年6月 自分らしさを活かせる環境を求め退社
2023年7月 思いつきでBASEにてTシャツショップ「Keigo」を開設(https://keigome.base.shop/)
2023年8月 代表岸田のキャリア観や会社のビジョンに強く共感し、ユニークキャリアに入社。

生い立ち

1999年秋田県秋田市で生まれました。家族は4人(父、母、兄、僕)で、結果的に家族全員幼稚園から高校まで同じになるという、なかなか珍しいケースだと思います。
父は地元の新聞社に努め、母は専業主婦。子育ては99%母が担ってくれたので、兄と二人でたくさん迷惑をかけてきました。僕は性格が父にそっくりなのですが、常日頃母から父に対する愚痴を聞きまくってきたので、ずっと「お父さんに似てるよね」って言われることが大っ嫌いでした(笑)
兄は2歳上で、ほとんど喧嘩をしたことがありません。今も昔もずっと仲がよく、お互いのことを認めあっているいい関係性です。性格が全く違うからこそ、嫉妬心よりも尊敬心のような思いを抱く場面が多かったのかもなと思います。
そんな兄とずっと過ごしてきたこともあり、生まれたときから今まで基本兄の二番煎じみたいな人生を歩んできました。
洋楽やEDMを聞き始めたり、「爆笑問題カーボーイ」から深夜ラジオにハマり出したり、「バスケはJORDANかNIKEしか勝たん」的な偏った考えを持ったり。
高校あたりからは徐々に自分の判断軸を持てるようになってきて、そこらへんから趣味が合わなくなってきた感が出てきましたが、僕の根幹は兄の真似っ子をしたことによって醸成されたことは間違いありません。
兄と近所の友だちと公園で遊んでばっかの活発でやんちゃな少年でした。

小学校から中学校

小1の冬から兄の影響でバスケをはじめました。
入部する数週間前に先輩方が全県大会で優勝するほど当時は強豪校だったのですが、その分とんでもない体罰が常習化していました。

(例)
・パイプ椅子をぶん投げる。
・松葉杖で頭を殴られ流血
・集合が遅かったら腹を蹴られる
・ミスしたら壁に立たされ全力投球されるボールを避けるという謎の練習
・紅白戦で負けたらグラウンドを負けた点差分上裸で走り回る

これらはほんの一部です。先輩方が当たり前のように受け入れていたのを見て「こんなもんなんだ。」って渋々納得してましたが、今振り返ってみるととんでもないですね(笑)。

ただそんな環境で小学校時代は過ごしてたので、負けん気は身についたかもしれないです(笑)

小6のときには副キャプテンとしてチームを率いる立場になり、より理不尽な体罰を受けるようになりましたが、練習試合で県2位や県4位のチームに勝ったりとちょっとだけ結果が出ていたので、「結果が出たらなんでもいいや」的なスタンスで日々練習に励みました。
ただ、最後の大会では緊張から何も貢献できず、市の初戦で敗退するという予想外の結果に終わり、初めて心の底から自分が情けなく思えて、嫌いになりました




中学時代は僕の人格の9割が形成された期間です。

基本とにかく騒いで目立つことだけを考えていたやんちゃなスポーツ小僧だったと思います。


学校祭の「のど自慢」という企画のときに、友達と海パン一丁でステージ上で「青い珊瑚礁」を熱唱して女子を敵に回したり、いきなり授業中に教壇に行って「代わりに黒板書いたりましょか?」と生意気に言って先生にげんこつされたり…。

行事から授業まで、とにかく自分の言動で笑いをとることができる場面に飢えていた分、信じられないほど怒られまくりました。



その反面、学業面の成績はそこそこよく、授業中も誰よりも積極的に発言していたので、先生方からはほんとに可愛がっていただきました。

僕は元々勉強が大嫌いで、小学校のときはほんとに成績が悪く、小3のときは漢字テストで10点を取ってしまって、先生や親から将来を心配されるほどでした。

そこから親のすすめで小6の冬休みから塾に通い始め、徐々に「こんな俺でもやればちょっとはできるじゃん!」という自信を持ち始めることができ、勉強に対する苦手意識を払拭。

中1の初めての試験では、順位がついたことで、自分の頑張りが相対的な数字として出ることによって得られる達成感を強く実感しました。


そして、中1の冬に別の塾に通うようになり、そこで僕の恩師となる塾長に出会います。

茶髪・ジャケットにTシャツ・ジーパン・カラコン・香水」という、お世辞にも塾講師とは思えないような装いで授業をしていたので、最初はめちゃくちゃビビり倒してました(今もびびってます)。





塾長は、まだ「人生とはなんたるや」を心得ていない中学生の僕たちに、「大人になっても、中身は中学生の自分からほとんど変わらない」ということ、そして「今の習慣や努力した経験が、成功体験として大人になってから自分を突き動かす原動力となる」ことを何回も熱く語ってくれました。

ただ受験のために教科を教えるだけでなく、中学生の自分たちが"今"勉強を頑張ることの意味を教えてくれたり、結果的にあのとき、友人たちと楽しみながらも死にものぐるいで勉強を頑張れる環境を作ってくれたことで、努力が自分の輝きを増してくれるという人生において欠かせない努力の本質を原体験として与えてくれたりと、総合的な人生の学びの機会を与えてくださいました。

今でも帰省するたびに塾に掃除しに行ったり、飲みに行ったりするくらい塾との関わりは続いています。


中学校の部活では小学校同様、一個上の先輩方の代から主力として試合に出ることになりました。
その分調子に乗ってしまい、先輩方にかなり生意気な態度を取ってしまっていたことも多々ありました。
それでも先輩方は僕を信頼してくれて受け入れてくださり、余計なものを背負うことなくプレーさせてもらえる環境を整えてくれていました。

だからこそ、「試合に出る分たくさん点を取って貢献できる人間にならないとな。」といった帰属意識や責任感を強く持つようになりました。

そして、自分たちの代では主将としてチームを引っ張ることに。
ただ、またしても市総体の五位決定戦で敗北し、県大会に出ることができずに引退。
主将という立場にふさわしい振る舞いができたのかどうかはわかりませんが、小学校の時よりはチームのために自分ができることをやるという意識は持てていた気がします。

特に、五位決定戦の前の敗者復活戦では、終盤までもつれる接戦の中、自然と「俺たちならできる。絶対勝つぞ!」と繰り返しチームに言い続け、勝利という結果につなげる事ができたのは後々自分の人間としての成長を感じる出来事でした。



高校時代

高校は、勉強を頑張った甲斐もあって県内一の進学校である秋田高校に進学します。

そんな高校生活は、最高でもあり最低でもある超極端な青春の1ページでした。

まず、部活では同期のメンバーがたまたま身長が高くて、実績がある人たちが集まったため、一個上の先輩方の代のときでも、コート上には僕含めた二年生が4人、なんて状況が起こることもありました。
高校の部活ではなんの役職にもつかなかったのですが、「とにかく1対1で仕掛けて、速攻で走って点を決めろ」というわかりやすい役割を担い、結果的に最後のインハイ予選では目標のベスト8進出を達成し、能代工業に負けて引退、という秋田のバスケ小僧にとって理想の引退の仕方を経験できました。

自我が強い奴らの集まりだったので喧嘩ばっかでしたが、その分たくさんの時間を共有したので、今でもみんなで集まるくらい仲良しです(笑)。




上裸の写真しかなくて申し訳ないです(笑)。

部活以外にも、学校行事は中学時代同様全力で楽しみました。
三代行事と呼ばれる運動会・学級対抗・学校祭では全て役職に付いたり、私服登校の強みを活かしてハロウィンにはスケルトンのコスプレ姿で登校したりと、もう承認欲求満たしまくり目立ちまくりの最高の思い出でした(笑)。









一方勉強に関しては、中学時代の反動で完全に燃え尽きていしまい、冗談じゃなく本当に三年間で23時間しか勉強しませんでした。

中学時代は塾にも通っていたし、ちゃんと目標にしている高校があったのでそこに向けて無我夢中で頑張る事ができたのですが、こと大学受験においては特に行きたい学部も大学もまったくなかったので、部活から帰って寝て、土日も部活に行ってそのまま飯を食べに行ったり遊びに行ったりと勉学とは無縁の日々。

もちろん受験は大失敗。浪人しか選択肢がないほどでした。

センター試験の自己採点が終わったあと両親に泣きながら「浪人させてください」とお願いしたことは、一生忘れられない苦い思い出です。

そういう意味で、高校生活はほんとに最高で最低の思い出でした。

浪人時代

高校卒業後、仙台の河合塾で寮に住みながら浪人することになります。

この寮は通称精鋭寮と呼ばれる、ハイレベルコース以上の男子生徒だけが住める場所だったのですが、とにかく精鋭寮なんてかっこいい名前には似つかわしくない古くて厳しい環境でした。

風呂トイレ洗面所洗濯機は共用。風呂場や食堂でちょっとでもうるさかったら放送で呼び出しを食らって説教され、親にも連絡されるほどです。

それくらい極限の環境だった分、仲間同士の絆はとても強固になっていき、大学時代や今でも集まるくらい気の合う仲間たちと、お互いを励まし合いながらなんとか一年間勉強を続け、無事志望校だった千葉大学の法政経学部に合格することができました。

大学時代




大学受験で挫折を知り、浪人してまで掴み取った大学生活ですが、その教訓を一切生かさず飲み会と遊びに魂を燃やす毎日でした。

もはやバイトすらもめんどくさく感じるほど無気力で、友と馬鹿騒ぎをしながらお酒を飲んだりカラオケに行ったりする時間こそが生きがいだったので、大学の授業も友達に助けを求めないと一切理解できないくらいにサボる日々。



最終的に単位との格闘は4年後期まで続き、超ギリギリでなんとか卒業を勝ち取りました。

そんな傍ら、留学やドイツでのインターンなど、充実しまくりの大学生活を送り、誰もが知る企業から内定をもらっていた兄の姿を見て、将来に対する強烈な不安が常に僕の心を襲っていました。

もはや、開かれた"大学"というコミュニティで「バスケもない、目立つ舞台もない」という状況において、自分は一切価値のない、"何者"でもない立場だったので、高校のときまでとは対称的な、とにかく自己肯定感の低い毎日でした。

そんな状況にさすがに危機感を覚え、「口だけは達者だから営業の仕事を経験してみよっかな」と営業のインターンを計3社で経験。

なんとなく実績になるかな、くらいの薄すぎる動機から始めたので、そこまで誇れる実績を残すことなく、ただ任された仕事を淡々とこなすだけの日々でしたが、実際に業務を体験し、「仕事がバスケのかわりにならないと、きっとこれから一生"何者"にもなれないし、退屈な毎日になるな。」ということだけははっきりとわかりました。

だからこそ、就活だけは真面目に、真剣に取り組んで、仕事を楽しめる環境を手に入れる"権利"を得たいなと思いました。

ちょうどインターンを始めて3ヶ月くらいたった大学三年の4月から、就活に気持ちを切り替えることになります。

就活時代

そんなこんなで就活を始めたのですが、僕の企業選びの軸は大きく2つでした。

①裁量権があって、成長できる環境
②社員がみんな心の底から仕事と会社を楽しんでいる環境

インターンや本選考の際には、それぞれの企業に即した軸を後付けで足したりはしましたが、この2つの軸に当てはまる企業以外は、選考を試しに受けてみても正直全く行く気が起きませんでした。

年功序列の大企業に行ったとしても、「お金や家庭のためだけに自分の本心を押し殺して退屈な仕事をこなすだけの日々は絶対に飽きるし、今よりももっと卑屈で無気力な人間に成り下がるだろうな」ということは容易に想像できたからです。

それを踏まえ、中心に選考を受けていたのが、いわゆるメガベンチャーです。

メガベンチャーなら、2つとも軸を満たしているし、親も誇らしく思うだろうし、自分も鼻高々と同窓会にいけるだろうな、なんていう甘い考えで、面白そうな事業を手掛けているメガベンチャーのインターンや本選考ばかり受けていました。

その中でも第一志望だったのが、サイバーエージェントでした。

とにかく面談させていただいた社員の方々がキラキラしていたし、社会的なブランド力もあるし、おまけに初任給も高い。
ミーハーで飽き性な自分にとっては、これ以上ない環境のように思えました。

ただ、内心「今の俺が内定もらえるわけないよな」と感じていたので、「面接練習がてらさっさとエントリーして、気軽に選考に臨んでみて、落ちたら別の会社に向けてまた準備すればいいか」くらいの気持ちで選考に臨みました。

そしたら、なんか内定をもらえました。

まったく誇らしい実績もないし、なんなら大学生活なんて内面も外見も一番自信がない時期だったんで、ほんとにびっくりしたし、嬉しかったです。

堕落した大学生活を笑い話として今語れるのも、就活で結果を残す事ができたからなのかもしれません。

最終面接のあとに別室で内定を告げられ、その場で承諾。
ABEMATowersを出てすぐにLINEを家族に送りました。親や兄は予想通り超喜んでくれたし、友人からも「お前やば!」とたくさん言ってもらうことができたしで、久しぶりに自分が自分で良かったと思うことができました。





そしてなんとか学業の方でも大学卒業を確定させることができたので、晴れて理想の環境で社会人としての一歩目を踏み出します。



社会人生活



憧れていた会社に入社し、思い描いていたような、充実した社会人生活の一歩目を踏み出すことになるかと思いきや、研修や配属後の業務をこなし始める中で徐々に「あれ?」と感じることが増えてきます。

配属は、サイバーのいわゆる花形であるインターネット広告事業第一本部の中枢的なチームに決まり、優秀な先輩や同期に囲まれた中で仕事をすることになったのですが、自分のダメなところばかりが気になってしまうようになってきたのです。

僕はお調子者なので、自分の世界に相手を引き込んで会話したり、冗談を言ったり、様々な観点から奇抜なアイデアを生み出すことが得意な一方、クライアントは日本有数のマーケのプロの方々で、かつすでに市場のシェアも取り切っている、という中で求められるのは、超合理的な戦略構築力や効率的にタスクをこなすスキル、毎日数字の上下動に向き合いながら細かな調整を重ねる修正力などでした。

要するに、自分の弱点ばかりが際立ってしまう環境に自ら志願してしまったのです。

「サイバーなら、広告一択っしょ!」

という超絶薄い考えから第一本部に配属希望を出してしまったがゆえに、就活のときに望んでいた"仕事をバスケのように楽しむ自分の姿"からはかけ離れた現実が待ち受けていました。

"何も良さが出せない、自分としてここにいる意味を感じることができるようになる自信がない。"

そんな思いを抱えながらも、「できない自分が悪いんだ」となんとか苦手なことに向き合い続け、同期の活躍と自分の現状を比較し失望を感じる毎日。体力も気力も消耗してばかりで一向に回復しませんでした。

そして、悩みながらも自分の本心や強み、存在価値などいろんなことと向き合う中で、大胆な決断をすることに。

入社2ヶ月ちょっとしか経ってないけど、退社して自分らしくいれる場所に行こう。

そう決心した僕は、入社からわずか2ヶ月半たったばかりの6/15にサイバーエージェントを退社しました。

肩書を失うことへの不安や、親の期待を裏切ってしまうことへの申し訳なさを感じながらも、向いてないことに向き合い続けたり、心身ともに疲弊させ続けるだけで、達成感や楽しみを感じることができなかったりの毎日から開放されたことで、徐々に本来の自分を取り戻していきました。

そこから転職活動をしつつ、「とにかく思うがままにやりたいことをやろう」と、ジムに行って筋トレガチ勢になったり、絵をちょっとかじってみたり、興味のある本を読み漁ってみたり、思いつきでTシャツを作ってBASEで販売し始めてみたり。






そうするうちに、今まで触れてこなかったようなことでも、心の底から楽しいと思えたり、「案外できるじゃん俺!」と思えるくらいに適性がある事物が思いの外あることに気が付きました。

その時、僕はあることに気がついたんです。

自分は、すでに"何者"なんだ。」ということです。

今まで、自分が"価値ある存在"になるには、歯を食いしばってできないことをなくして"何者"かになる必要があるという考えに侵食されていた気がします。
でも、すでに自分には弱みと同じくらい強みがたくさんあって、嫌いなことと同じくらい好きなことがあるんじゃないか、と思えてきたんです。

自分が価値がない存在だと思えてくるのは、本当に価値がないんじゃなくて、自分の価値に気づく機会がなかったり、発揮する機会がないだけなんじゃないか。

この考えが芽生えた瞬間に、一気に目の前が明るく希望に満ち溢れた世界に様変わりしたかのように思えました。

「たくさんのことに挑戦できて、自分の価値が会社や社会のために役立っている、という実感が持てて、そこでの自分の頑張りがそのまま財産になる。
そして将来的に自分のやりたいことで社会に貢献できて、お金を稼ぐことができる人間になりたい。
その"権利"がある人間なんだ、と自信を持って言えるくらい、"今の自分"が会社の成長の原動力になれる環境に行きたい。」

そこで出会ったのが、ユニークキャリアであり、代表の岸田さんでした。

この環境で、この人のそばでがむしゃらに働いたら、自分が"何者"かであることの根拠を、実績やスキルとして得られる、そう思えました。

「自分自身サイバーエージェントに新卒入社してすぐに辞めた時点で良くも悪くもユニークキャリアなんだし、いっそのこと自分の人生で一番"ユニークキャリア"を体現してやろう。」

そんな思いになりました。

働き始めてまだ数日ですが、僕の判断は正しかったと自信を持って言えます。

こんなに仕事というものが楽しいなんて思わなかったし、自分として生きる意味を感じられる環境があるなんて思いもしませんでした。

少数精鋭の環境で、自分は強みである"口"を生かした営業の中心として会社に貢献することを求められていますが、今、さっさと仕事を覚えて一刻も早く商談がしたいし、結果を出して会社を急成長させる最大の要因になりたいという思いでいっぱいです。
できない自分に向き合うことに疲弊し落胆する姿はもういません。

少数精鋭の環境であるがゆえに、一人ひとりの役割や責任はこれからどんどん肥大化していくと思います。今の自分じゃ対処できないような困難も待ち受けているでしょう。

でも僕は「ユニークキャリアという会社に入ったことが正解だった」という今の思いを、客観的に見ても納得してもらえるよう、そして岸田さんに拾ってもらった恩返しとしてユニークキャリアを大きくできるよう、僕が"何者"である所以を存分に発揮していきます!!!!


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