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【社員コラム】NY愛を語ります

皆さん こんにちは。LeaL理事でディレクションズ顧問の鈴木款(まこと)です。オフィスにいることが少ないので、「誰?」と思う方もいるかもしれません。社内報初登場ですが自己紹介も無く、いきなり愛してやまない街、ニューヨークについて書きます。



今月NYに6年ぶりに行ってきました。タイムズスクエアは相変わらずエネルギッシュ


大学卒業後金融マンとなり、1987年から91年まで約5年NY支店に駐在しました。仕事は外為市場ディーラー。巨額のドルと円を売ったり買ったりして、サヤを稼ぐ仕事です。当時プラザ合意で急速に円高が進み、外為市場は値動きが激しく毎日がエキサイティングでした。その辺の空気感は後に紹介する映画「ウォール街」を観てもらうとわかります。


昔から変わらないウォール街。世界中のお金がここに集まります

最初のオフィスはNYダウンタウンにあった世界貿易センタービルでしたが、ご存じのように2001年に起こった9.11同時多発テロでなくなりました。テロの当日私はフジテレビの報道センターで働いていて、かつてのオフィスが崩れ去る様子をモニター越しに茫然と見つめていました。今でも昨日のことのように思い出されます。


実はニューヨークは高校時代から憧れの街でした。映画と演劇が大好きだった私は、ニューヨークを舞台にした映画「タクシードライバー」(マーティンスコセッシ監督ロバートデニーロ主演)を観てこの街が持つ魔力に魅入られ「自分はここで生きる」と決めました。だからNY赴任が決まった時、本当にうれしくて仕方なかったです。

タクシードライバーのサントラ盤ジャケット。高校時代に買って持ち続けてます



80年代のニューヨークは治安が悪く、街中にドラッグの売人や売春婦がいたし、バブルで裕福と思われていた日本人の駐在員や観光客はよく強盗に遭いました。私も会社を出ようとしたら目の前で銃撃戦が起こったことがあったし、当時夜に地下鉄に乗るなんて自殺行為でした。

でも街には最高のアートやエンタメ、音楽が溢れていたし、ニューヨーカーはとにかく多様でエネルギッシュ。20代の独身でマンハッタンに住んでいた自分にとって、この街はいつもキラキラした宝箱のようで、街を歩くだけで身体にエネルギーがみなぎってくるのを感じました。


さて、ここに当時のNYの空気を感じる映画を紹介します。

「摩天楼はバラ色に」(マイケルJフォックスがNYで成功していく若者を演じる)

「恋人たちの予感」(メグ・ライアンとビリー・クリスタルのNY舞台のラブコメ)

「カクテル」(トム・クルーズがNYで成功するバーテンダー!)

「クロコダイル・ダンディ」(オーストラリアの探検家がNYで巻き起こすロマンスと騒動)

「星の王子様 ニューヨークへ行く」(エディ・マーフィがNYにやってくるアフリカの王子を)

「ワーキング・ガール」(メラニー・グリフィスがNY舞台にビジネスで成り上がる)

「ドゥ・ザ・ライトシング」(スパイク・リーが描くブルックリンのドラマ。最高)

「ブラック・レイン」(大阪舞台だけど冒頭出てくるNYがカッコいい)

「ウォール街」(オリバー・ストーンが描くウォール街の野望と陰謀)

「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(NY市警と中国マフィアの死闘。マイケル・チミノ監督)

今観て思うのは、どの映画の登場人物も楽天的でとにかく上昇志向が強いです。いろいろ問題だらけだったNYだけど、描き方にユーモアと愛が溢れています。製作者はとにかくNYが大好きなのがわかります。


私はロックが大好きでしたが(いまも)、NYは毎日のようにどこかで大物アーティストがコンサートをやっていましたし、ジャズクラブではレジェンドのミュージシャンが演奏していました。お気に入りのクラブがスイートベイジル(2001年に閉店)で、観に行ったアート・ブレイキーのドラムが凄すぎて、演奏後楽屋に行って「あなたの演奏を聴くために僕はNYに来た気がする」と伝えたらハグされたのが自慢です。


数々の名演奏があったビレッジバンガード

当時は暇さえあればNYだけでなく北米や中南米の国々もよく旅をしました。だから帰国するときは本当に悲しかったし、そのまま会社を辞めてMBAを取ろうと考えたりもしました。結局帰ってフジテレビに転職するのですが、まさか本当にもう一度NYで暮らすチャンスがくるなんてその時は全く想像しませんでした。やっぱりNYの女神に愛が通じたんだなあといまは思っています。


2度目のチャンスが巡ってきたのは、フジテレビ報道の現場で働いていた2005年です。それまで「報道2001」という日曜日朝の政治討論番組(キャスターは現・神奈川県知事の黒岩祐治さん)でディレクターをやっていましたが、ワシントンDCでアメリカの政治を取材したいと異動希望を出したところ、なぜかNYへの異動を言われました。当時は結婚していて子どもが3人いたのですが、どうせ行くならと家族全員で赴任しました。子どもたちは現地校に入れましたが、慣れるまで大変だったものの(3人とも英語を話せなかった)、今では親がうらやむくらいバイリンガルになりました。家庭内英語偏差値は私が最低です。


NY支局長として2010年まで5年間働きましたが、少人数で北中南米のあらゆる事象をカバーしていたこともあり、年の3分の1は取材でNYにいませんでした。ただ前回と違ってNYの郊外で暮らしたので、自然が豊かでのんびりしたアメリカンライフを楽しむことができました。報道の仕事はホント忙しかったのですが、残業が終わると(日本の昼のニュースまでオフィスにいた)チームでよく飲みに行きました。この時代は80年代に比べてかなり治安が改善されていたので、夜中まで街中で飲んでいても身の安全を心配することはあまりなかったです。


NYの摩天楼。ペンシルみたいな新しいビルがニョキニョキ増えていました

2010年に帰国した後は、2018年に小泉進次郎さんの本を書くためコロンビア大学に取材に行ったのを最後にNYはしばらく行っていませんでした(正直もういいかと思っていた)。でも今月6年ぶりに家族とNYに旅行しました。するとマンハッタンの一部エリア(ハドソンヤード、ハイライン、ミートパッキングエリアやワールドトレードセンターなどなど)やブルックリン(ダンボ)の変貌ぶりが凄かったし、タイムズスクエア、自由の女神やエンパイヤステートビルディング、セントラルパークやMoMA、グリニッジビレッジなど、もう何度も行った鉄板の観光地もやっぱり最高に楽しかったです。

NYはマリファナが合法化されていて街中に匂いがしたけど、それもご愛敬。いまもこの原稿を書きながらアリシア・キーズ&ジェイZの曲を聴いていて、老後は移住しようかなと夢想したりしています。

この原稿で言いたいことは、一念すれば通じるということ。また行くぜNY。おしまい。

(エンパイヤステートオブマインドhttps://www.youtube.com/watch?v=vk6014HuxcE


自由の女神がいつでも歓迎してくれます


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