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起業のきっかけはアフロヘア。それから36年、営業せずに会社を守り続けた波乱万丈社長の仕事の流儀


最先端のテクノロジーを駆使しているわけではない。
SNSでたくさんのフォロワーを抱えているわけでもない。

お金に物を言わせて、大量に広告を打っているわけでもない。

それでも途切れることなく舞い込んでくる、仕事の依頼。

有限会社エキストラの創業者・角本武郎(かくもと たけお)さんは、創業から36年もの間、一切営業活動をすることなく、ノベルティの制作、販売を中心に事業を行ってきました。

2019年の3月に、代表取締役の座は息子の拓也(たくや)さんに譲り、いまは取締役として会社を支える角本さん。創業の経緯、そして36年もの間、事業を続けてこられた秘訣について聞きました。



角本武郎(かくもと たけお)さん。1952年4月27日岡山県生まれ。名古屋学院大学を卒業後、1974年に名古屋安井家具へ入社。営業成績トップをとり、1年後の1975年、株式会社BEE HOUSEへ転職。その後、1983年4月に、いまの有限会社エキストラの前身となる有限会社エキストラ ビィを設立。2019年3月、代表取締役を退任し、取締役に就任。

大学選びの基準は「学費」

――まずは学生時代から、エキストラ創業までの経緯を教えてください。

角本:ぼくは名古屋学院大学を卒業してるんだけど、その大学を選んだ理由は、端的に言うと「学費が安かった」から。当時、名古屋学院は日本で2番目に学費が安かったの。一番安かったのは立命館大学なんだけど、そこは難易度的にもしかしたら不合格になるかもなあと思って。名古屋学院なら合格できそうだったし、地元の岡山より東京に近くなって遊びに行けそうだったから、名古屋学院にした。

――「学費が安かったこと」が、一番の理由だったんですね。

角本:要は、勉強ができなかったから(笑)頭のいい大学に行くわけじゃなくて、ただ自分が「大学生活を経験してみたいなあ」という理由だけで大学に行こうとしてたから、できる限り親にお金の負担をかけないように、安いところに行かないとなと。ただ、実際にキャンパスへ行ってみたら、愛知は愛知でも瀬戸(せと)っていうすごい田舎なところで、地元の岡山よりも田舎だったんだけど(笑)

田舎のビリヤード場で出会った、アフロヘアの男

――思い描いていたキャンパスライフとは、少し違ったんですかね...(笑)ただ、自然豊かな環境で4年間を過ごされた後、そこから真逆のイメージでもある「起業」を選ばれた経緯が気になります。でも新卒から会社を立ち上げるまでの間に、2つの会社で働いてるんですよね?

角本:大学卒業後の話をする前に、もう少し大学時代の話をすると、実は最初の2年で4年分の単位をほとんど取っちゃったのね。だから3年生以降は、週に1回とか、月に1回とかくらいのペースでしか、学校に行かなくなって。ヒマだったから、パチンコやビリヤードをやってた。そしたら、ぼくと同じビリヤード場で、平日の昼間から遊びに来てるアフロヘアのとある3人組を、よく見かけるようになって。すごく目立ってたんだけど、明らかに学生ではなかったから、声をかけてみたの。「どんなお仕事されてるんですか?」って。

――そしたらなんと...?

角本:「おれらの仕事場に遊びに来いよ」って。行ってみたら工房だった。彼ら、人形やコーヒーカップをつくるデザイナーだったの。そしたらいきなり「角本、この仕事場を掃除してくれ」って。なんでだよ!と思ったけど、まあいいかと思って掃除したら、今度は「車の運転手をやってほしい」と。けどヒマだったし、代わりにご飯をごちそうしてもらえたし、何より彼らといるのが楽しかったから、どんどん彼らと過ごす時間が長くなっていったのね。そしたら大学を卒業するとき、その3人組のリーダーから「角本、おれはお前と一緒に働きたい」と言ってもらって。

――それはうれしい言葉ですね。

角本:ただ、その言葉に続けて「けど、おれはお前に社会常識を教えてあげられない。知り合いの会社を紹介するから、まずは1年そこで働いてこい」と言われて。それで紹介してもらったのが、名古屋安井家具だったの。それから実際に1年後に、そのリーダーが立ち上げたBEE HOUSEに入社して。最初はぼく入れて、7人くらいだったかな。けどそこから5年くらいの間に、北海道から沖縄まで日本中、あとサンフランシスコにも事務所をつくった。

――すごい急拡大...!

角本:集まってきた一人ひとりのエネルギーが大きかったんだよね。ただ、みんな組織向きの人間ではないわけ。だから規模が拡大したときに、組織のなかで軋轢が生まれるようになったの。本当はそこで組織をマネジメントする役割のひとが必要なんだけど、会社を立ち上げたリーダーのひとが、他のメンバーに任せきれず現場までおりてきてしまったり、デザイン側とビジネス側の意見で衝突してしまったりと、もう本当に会社が崩壊寸前までいって。このままでは潰れてしまうなっていうタイミングで、自分の会社をつくることにした。

――じゃあ起業自体には、やむを得ずっていう側面もあったんですね。

角本:ただ、別にケンカ別れしたっていうわけではなくて、最初はBEE HOUSEの「のれん分け」って形で会社をつくったの。だから名前も「エキストラ ビィ」にして。BEE HOUSEとは役割分担で、BEE HOUSEが製造、エキストラ ビィが販売をするって形で、お互いがWin-Winになるようにして。それから3~4年後くらいに、やっぱり自分自身で会社をやりたいなということで「エキストラ」という社名に変えた。

101軒目のラーメン屋にはなるな

――自分から望んでというよりも、そうせざるを得なかった背景もあっての起業ですが、そこからこれまで36年もの間、会社を続けてこられた秘訣はなんですか?

角本:会社をつくるとき、先輩に言われたのは「101軒目のラーメン屋にはなるな」ということ。要はもうすでに100軒のラーメン屋があるのに、そこから新しく101軒目のラーメン屋になっても、埋もれてしまって潰れるぞと。お客さんにとって「オンリーワン」の存在になることが大事。いろんなところへ営業に回って、なんでもやりますよ!っていうのも、もちろんひとつのやり方ではあるんだけど、ぼくの場合、それでは3年も持たないだろうなと。

――「オンリーワン」の存在になるために、具体的にはどんなことをされてたんですか?

角本:一番意識してたのは、「自分だけ儲けようとしない」ってこと。例えば、これまでの物流の経路って、メーカーがいて、メーカー側の問屋がいて、小売側の問屋がいて、小売店舗があって、そしてようやくクライアントという順番だったの。メーカーとクライアントの間に、2つも3つも業者が入ってたわけ。そこをぼくの場合は、メーカーとクライアントの間に直接入るようにした。

――商品が作られてからお客さんに届くまでに関わるひとを、減らしたってことですね。

角本:でもそこで中間業者を抜いた分の利益を、ぜんぶウチでもらったかというと、まったくそうではなくて。メーカーさんからはできる限り言い値で仕入れて、クライアントにも少し安く商品を提供した。ウチの取り分は少しだけでいいからと。もうWin-Win-Winの関係。

――いまはAmazonや楽天が同じような仕組みでやってて当たり前になってますけど、それをもう30何年も前からやってんですね。

角本:あとは、例えばクライアントから「こんな商品が欲しい」とか「この商品を1,000個つくって欲しい」とかって希望があって、ウチの会社では難しいかな、その規模は大きすぎて対応しきれないなってときも、ただ「できません」って断るんじゃなくて、「この会社さんだったらできますよ」って他の会社を紹介する。クライアントにとってはまた別の会社を探す手間が省けるし、紹介先の会社にとってもうれしいし。そうやって、自分の目先の売り上げにはならなくても、クライアントや周りのひとのために動いていたら、今度は逆に仕事を相談をもらうことにもつながるの。

――ひとつひとつの信頼の積み重ねが、大事だということですね。では最後に、2019年の4月から代表になった息子の拓也さんに、なにかメッセージはありますか?

角本:まあ、あいつはあいつの人生だから、好きなようにやれというのが一番なんだけど(笑)もちろん、せっかく一緒にやってるから、なにか聞かれたらぼくの経験を彼に伝えることはできる。けど、いまはぼくたちの時代と違って情報量が違うし、ぼくの言ってることが正しいとも限らないから、最後には自分自身で判断すればいいよというのは伝えたいね。

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