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元プログラマーが単身海を渡り、上海・深センで4年生活…そしてネットスターズにジョインした訳

はじめまして、ソリューション開発部の丸一です。今回は、私が日本・中国で経験してきたこと、そして、なぜネットスターズにジョインしたのか、少し長くて恐縮ですが、私のストーリーをご紹介させていただきます。

大学卒業後、プログラマーに

大学時代、数ある講義の中で1番楽しんで受講していたのがプログラミングの授業でした。理系の学科ですが、プログラミング専門の学科ではなかったため、みんな素人で本当に基礎の基礎からのスタート。実は、私は高校生のころからホームページ作成にのめり込んでおり、プログラミングにはずっと興味を持っていました。ちなみにそのホームページの内容は自作の下手くそなGIFアニメーションを公開するというもので、当時はまだ個人でウェブサイトを公開する人も少なく、実は雑誌にも掲載されたことがあります(笑)。簡単なHTMLやJavaScriptくらいは書けたため、他の人たちに比べるとさほど抵抗もなく、非常に簡単なものではありますが、気づいたらスラスラとコーディングしていました。若干、自分にはプログラミングの才能があるのではないかと思うようになり(笑)、結果的に大学卒業後は大阪のソフトウェア開発ベンチャーに就職し、プログラマーとして働くようになりました。

激務の始まり

大学の講義で学んだプログラムは所詮は基礎の基礎で、到底仕事ができるレベルではありません。案の定、全く即戦力にはならず、先輩に基礎から教わることに。しかし、私が入社したのは社員数13名ほどのベンチャー企業、ほんの少しの教育期間の後、すぐにプロジェクトに投入されました。そして、テスターとしていくつかテストを経験しながら、Javaのプログラミング資格を取得。すると、なんといきなり自分一人で顧客向けのウェブシステムを構築するという任務が与えられました(笑)。当然ながら何から始めていいかわからず、見よう見まねでASP.NET(C#)でゴリゴリとコーディングしていました。しかし、書き上げたものは動きはするものの、とてもお客様に納品できるようなレベルではなく、先輩の指導により1から作り直し。帰宅が毎日終電を気にするほどの時間となり、その生活に耐えられず気づいたら会社のすぐ近くに引っ越していました(苦笑)。しかし、それはさらなる激務の始まりでした...。

日本で設計、中国で開発、オフショア開発ブームの到来

そんな中、突如降って湧いたオフショア開発案件。リーマンショックの影響もあってか、とにかく開発費を抑えたいという流れになり、日本で設計、中国で開発というオフショア開発のブームがやってきました。今までオフショア開発など全く経験の無い私は、それがとてつもない苦難の入口だとは知る由もありませんでした...。当時のオフショア開発はいわば工場のライン作業のようなもの、日本語とプログラミングの基礎を叩き込まれた中国人プログラマー達が仕様書に沿って、用意されたサンプル通りに開発するというもの。事前にプログラミング仕様書、コーディングサンプルやコーディングルールをしっかり作成しておかなければ、開発に着手できず、質問の嵐。正直、ここまで細かく準備をするなら自分でやった方が早いと思うほどでした。

中国浙江省へ、初めての中国

遠隔だけでは対応しきれず、現地に行くことに。海外旅行もしたことない私はパスポートを作るところからスタート(笑)。足を踏み入れたのは中国浙江省寧波市。これが中国との出会いでした。現地の会社に行って驚いたのが、社員の若さ、プログラマーの平均年齢はなんと25歳以下でした。早速現地でコーディングルール説明会を実施し、現地で私が一人で開発のサポートをすることになりました。みなさん少しは日本語ができるのですが、スムーズに会話をできるほどではなく、中国語が一言も話せない私は、通訳の方に頼りっきりでした。夜6時になるとみんな一斉に帰宅、私と管理者の方の二人だけという状態になり、お互いに苦笑い。文化の違いや言葉が通じないストレスなどもありつつ、何とかこのプロジェクトを乗り切りました。

退職後すぐに中国語学習を開始、上海旅行へ

苦労の末にオフショア開発案件をいくつか完了し、納品を終えました。しかし、結局は前段階の準備などで日本側のコストが大きくかかり、本来は低予算で開発するべきものが、大幅なコストオーバー、オフショア案件の多くが赤字案件となり、結局はオフショア案件は自然に無くなっていきました。また、日本でひたすらプログラミングする日々が続く中、とあることを考えるようになりました、「また中国に行きたい…」。オフショア案件の赤字の影響で業績も傾く中、その後の具体的な計画もなく、数か月後には会社を退職していました。会社を辞めてまずやったこと、それは中国語の勉強でした。特に何をしたいという目標もないまま、何とかごくごく簡単な会話くらいできるようになりたいと思うようになり、中国人留学生を探して、中国語を教わりました。2~3か月ほど勉強し、上海に飛び立ちました。時はまさに上海万博、人であふれかえっていました。2週間の上海旅行で中国の急成長を目の当たりにし、あることを考えるようになりました、「ここで働きたい…」。

上海で転職活動

漠然と上海で働きたいと思いながらも何からしていいかわからず、中国語の勉強を続けながらインターネット上で何か方法はないかと日々探していました。すると上海のとあるメディア企業の求人を見つけ、あるキーワードを目にしました、それは、「中国語不問、IT・WEB責任者募集」というものでした。早速、メールで履歴書を送ると、すぐに返事がありました。そしてそこには驚くべきことが書いてありました、「履歴書を拝見しました、面接をしたいので上海に来てください」、私に迷いはありませんでした。普通の人であれば、まずはSkype面接でお願いします…、往復の航空券代は出るのでしょうか…などとなるのでしょうが、私はすぐに航空券のチケットを予約していました(笑)。後日上海に飛び立ち、住所片手に何とかたどり着きました。そして片言の中国語で面接に来た旨を受け付けの方に伝えると日本語で返事があり、中に案内されました。会議室に通されると、そこに現れたのは日本人の総経理(社長)とIT・WEB責任者の日本人の方でした。少し世間話をした後に総経理より、「上海まで面接に来てくださいと言って本当に来たのは君が2人目だよ」とのお話がありました。やはり他の方はみんな、往復の航空券の負担を会社に求めたり、Skypeでの面接を希望とのことでした。そんなこんなで総経理にも気に入って頂き、その場で内定を頂き、早速数日間研修することになりました。

上海・深センで3年間働く

そんなこんなで帰国後に就業ビザの手配をし、早速上海で働くことになりました(就業ビザ取得で相当苦労しましたが…)。実際に働いて驚いたのは社員の半数近くが日本人、そして顧客の多くが日系企業、顧客の担当者も日本人もしくは日本語ペラペラの中国人ということ。そのため、仕事のうえでは中国語はほとんど必要ありませんでした。中国語不問とはこういうことだったのかと今更ながら気づきました。仕事の内容はWEBシステムの改修や日々の運用、グループウェアの管理、システムの外注窓口、加えてメールマガジンの配信などなど、ITやWEBに関わることなら何でもやりました。その後、新規事業チームの立ち上げも経験し、WEBサイト制作事業の立ち上げ、アプリ開発プロジェクトの立ち上げなどいろいろ検討しましたがどれも実現には至らず。仕事も日本語オンリーのため、夜や週末に自力で勉強という日々。そんなこんなで2年半ほど働きましたが、中国語も思っていたほど上達せず、このままではいかんと思うように。ちょうどその時、私の知人の紹介で、私のポジションで働きたいという人が見つかり、そこで私が経営陣に告げたのは「深センに行って語学留学したい、後任者は自力で見つけてきました」でした^^; 前々から中国版シリコンバレーと呼ばれる深センという都市に興味があり、さらにはできることならそこで中国語を勉強したいと考えていました。経営陣の計らいもあり、社員数2名の深センオフィスで遠隔で引継ぎをすることを認めてもらいました。

深セン大学で語学留学、そこで見たキャッシュレス社会

何とか遠隔での引継ぎを終え、深セン唯一の国立大学、深セン大学で語学留学することに。教室の中にはアメリカ、ロシア、スペイン、韓国、日本、さまざまな国から集まった学生たちがいました。中国語を初中級レベルからみっちりと再学習。中国語の勉強をするだけの日々を送りました。

そんな中、深セン大学日本語学科の学生達に日本語を教える機会もあり、仲良くなりました。一緒に勉強するだけでなく、買い物や食事なども行くように、そこで気づいたのは学生達がみなスマホを活用して、少しでも安く買い物や食事をしている様子。百度外売、美団といったアプリが学生達の間でブームになっていました。さらには支付宝(Alipay)や微信支付(WeChat Pay)といったスマホ決済もみんな使いこなしており、日本には無いそれらの便利なアプリに驚きを隠せませんでした。実際に自分もWeChat Payを使うようになり、ホテルの予約もWeChat Payで先払いすれば大幅にディスカウントされ、美団というアプリの中でWeChat Payで映画のチケットを購入すると初回は1元で購入できるなど、お得なことばかり。当然みんなそういったアプリを使うようになり、次第に現金を使う機会も減ってきました。中国は知らぬ間にキャッシュレス化に向けて爆走し、日本の数歩先を行っていました。

帰国後すぐに東京へ、WeChat Pay日本進出を知り、ネットスターズにジョイン

1年弱の深セン大学での留学を終え、迷った末に帰国。帰国後すぐに東京に向かい家を借りました。東京・IT・中国語をキーワードに職を探しているとすぐに目に入ってきたのは「WeChat Pay日本上陸、ネットスターズが正規代理店に」というキーワード。ついこの間まで深センで使い倒していたWeChat Payが日本に上陸すると知り、迷わず応募しました。結果内定も頂き、他からも内定はありましたが、迷わずネットスターズを選択。これが私がネットスターズにジョインするまでの経緯です。

インバウンド中心からフィンテックへシフト

WeChat Payの事業を始めた当初はどちらかというとインバウンド事業という感じ、WeChatの公式アカウントなどとセットで中国人旅行客の取り込みをサポートというのが主な業務でした。しかし、その後は自社開発した決済プラットフォーム「StarPay」を別の決済事業者にOEM提供したり、LINE PayやAlipayの取り扱いも開始し、マルチ決済プラットフォーム化に舵を切りました。今までは中国人向けのみでしたが、LINE Payも扱うようになり、日本人も対象に。その後、d払いなど新たな決済ブランドの取り扱いも開始し、インバウンドからフィンテックへシフト、部署もインバウンド事業部からフィンテック事業部(現:事業統括本部)へと名称変更となりました。さらに、マルチペイメントのシステム連動やOEM提供促進のため、ペイメントシステム部(現:ソリューション開発部)を立ち上げました。


どうでしたか?長々とすみません…。あの時オフショア開発を経験し、中国の地に足を踏み入れてなかったら、全然別の道に進んでいたと思います。かつては日本がアジアの経済を引っ張ってきましたが、もはやアジアの企業の時価総額ランキングは中国企業がほぼ独占状態です。特にテンセントとアリババ集団の成長は凄まじいものです。スマホ決済の分野においても日本が中国を追いかける状態です。日本はやや特殊な決済文化をかかえており、スマホ決済がどこまで普及するかまだまだ未知数な状態です。2020年に東京オリンピックを控え、日本もキャッシュレス化促進に向け、重い腰を上げ始めました。我々の使命はQRコード・バーコード決済に特化したマルチ決済プラットフォームを日本中に広め、日本のキャッシュレス化を促進する、それは店舗だけではなく、自動販売機やタクシーなどありとあらゆるものをキャッシュレス化するということです。一緒に日本のキャッシュレス化を促進したいという方、ぜひご連絡ください!


筆者プロフィール

株式会社ネットスターズ
事業統括本部 ソリューション開発部
丸一 淳

1984年大阪府生まれ。大阪のソフトウェア開発ベンチャーで勤務時に中国オフショア開発を担当。中国の経済発展に魅せられ、単身上海に渡り、上海現地のメディア企業でIT部門責任者として勤務。現在は日本のフィンテックスタートアップ企業でスマホ決済(QRコード・バーコード決済)の普及推進に注力。

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