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SENSY(旧カラフルボード)創業秘話 前編:AI(人工知能)研究者から一転、飛び込みセールスマンへ。異常な決意を支えたキャリアビジョンとは?

僕がカラフル・ボード株式会社を設立したのは2011年11月。

前編では、AIの研究に没頭していた僕が、なぜ起業するに至ったか振り返ってみたいと思う。

            創業後初めて構えたオフィス:築33年のマンションワンルームにて

自分が本当にやりたい事は・・・

「前人未到の技術を発明をする研究者になる」という志を持ち、慶應義塾大学の理工学部へ入学。大学3年からはシステム工学という学問に関心を持ち、人工知能関連の研究室に所属した。人工知能の研究はとても楽しかった。2週間ぶっ通しで研究室にこもって没頭したこともある。来る日も来る日も、PCとホワイトボードとのにらめっこ。それなりに満足いく研究成果も出始めた。
しかし、やればやるほど、自分の中でふつふつと「ある違和感」が大きくなっていった。「このアルゴリズムは、誰のどんな生活を変えるんだろう?解決しようとしている課題は何だろう?」。こんな自問自答を繰り返す時間が多くなった。
「もしかして、僕が本当にやりたかったことは、”新しい技術の発明”ではなくて、”新しい社会の発明”だったんじゃないか?」。これが行き着いた先の結論だった。

大胆すぎたキャリアチェンジ

それからは行動が変わった。色々なビジネス書を読み漁り、起業家や経営者の方に話を聞きに行った。研究ばかりしていた僕には、ビジネスの仕組みは勉強すればするほど、難解に思えた。数学的に言うと、考慮しなければならない説明変数が膨大にある。そして、それの多くは数値化しにくい。さらに一番困ったのは、多くのビジネスは一人ではできず、「人を動かす」必要があった。数式とPCばかり扱ってきた僕には一番の難問だ。。
そんななか、フォーバルという会社の大久保社長(現・会長)に出会った。大久保会長は当時、⽇本最短記録で史上最年少という若さでJASDAQに上場を果たした、新進気鋭の起業家であった。社会に「新しいあたりまえ」を生み出すことをビジョンに掲げる大久保会長の考え方は、当時の僕の胸に刺さった。そして僕は新卒でフォーバルへの入社を決心した。

苦しい。正直、後悔もした新卒時代

フォーバルといえば、社員数1,500人、そのほとんどが営業マンというまさに営業会社。「夜討ち朝駆け」という、早朝から深夜まで顧客を訪問するような営業スタイルが基本であった。

僕のスペックは、もともとはAIエンジニア。当然のことながら、コミュニケーション能力は著しく低い。そんな僕に課せられた試練は、「入社3ヶ月以内に新規法人顧客を2社開拓してくること。できなければクビ!」。売っているのは数百万円もする情報通信機器。新規法人開拓は新卒社員が生半可にできることじゃない。訪問先のドアをノックすることすら、足が震えた。訪問先から怒鳴られたこともある。アポもなく飛び込みで営業しているのだから、当然の反応だ。
1ヶ月、2ヶ月、時間ばかり過ぎていくが、僕はまだ1件の新規開拓もできずにいた。正直、焦った。そして悩んだ。小さい頃から挫折らしい挫折を経験してなく、やれば何でもできると信じていた。「ビジネスの世界では通用しないのか?」、「その程度の人間だったのか?」、「クビになったらどうなる?」そんなことばかりが頭の中をぐるぐる駆け巡っていた。そして、通勤電車の中で急に視界が真っ暗になり、僕は倒れた。
幸いにも大事には至らなかったが、それで吹っ切れた感があった。どうせあと1ヶ月、がむしゃらに足掻いてみよう。周りからどう思われようが構わない。それまではどこか、キレイに纏めようとしている自分がいた。もうそんなことはどうでもいい、悔いの残らないようにやれることは全部やろう。

運が呼び込んだ快進撃

そこからは運も良かった。たまたまアポなしで飛び込みした先のお客様がちょうど新規購入を検討していたタイミングで、条件も合ってトントン拍子に話がまとまった。
次に考えたのは、「こんな運の良い出会いは、どうやったらもっと増やせるか?」だ。結果、想像した以上にうまくことは運んだ。運の良い出会いを、意図的に生み出すことに成功した。どんどん新規開拓ができるようになり、そのうちチームのマネージャーも任されるようになり、成績は伸びた。後から振り返ってみると、この時考えていた思考法自体が、「マーケティングの本質」そのものだった。
結果、任されたチームはトップの成績を収め、新卒1年目が終了した。この1年こそが、僕の人生を大きく変えた1年だった。AIエンジニアからのキャリアチェンジ、そこでもがき苦しみ到達した真理、それで得た自信、すべてが財産だと思えた。

コンサル、公認会計士、新規事業、とにかくがむしゃらにキャリアアップ

その後は、外資系コンサルティングファームに転職。ここでは「自分の創ったビジネスが大きくなった時、どうマネジメントすべきか?」というスキルを身につけるべく、経営戦略の考え方を学んだ。
また、経営戦略を学ぶにつれ、それを数値化して科学することの重要性を痛感し、ファイナンスと会計の勉強も始めた。最初は簿記2級からスタートしたが、「どうせやるなら最難関資格にチャレンジしよう」と思い、公認会計士をターゲットにした。自分に課した期間は1年間、コンサルタントとして働きながらではあったが、平均睡眠時間を3時間でなんとか勉強時間を確保した。
ここでもまた運が良かったのかもしれない。公認会計士試験の第1次試験を、ボーダーライン1点差でなんとか通過した。実質的な最終試験となる2次試験も通過、晴れて試験勉強を終えることができた。
また、「コンサルタントとして働きながら1年で合格」という経験は、試験結果以上にもっと多くの幸運を与えてくれた。この経験に興味を示してくれた予備校から依頼で、セミナー講師を担当したり、様々な人と出会うきっかけもくれた。
その後、新規事業開発を専門とするコンサルティングファームを経て、2011年11月、会社を立ち上げることとなった。営業、マーケティング、経営戦略、会計・ファイナンス、事業開発、など一通り習得し、いよいよ自分の想像する新しい社会づくりに没頭できることに、僕の心は躍っていた。

よく「起業を決心した時は怖くなかったですか?」と聞かれる事があるが、その時は希望しかなかったのである。その時は。。。


                会社設立時はオフィスもなく、スタバをオフィス代わりに


中編:「満を持して創業!のはずが・・」スタートアップの難しさとは? へ続く

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