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ニット代表、秋沢社長を直撃! 第2回 アメリカ横断旅行中のリモートワークで直感したこと

~ニット代表 秋沢社長の過去と未来 第2回~
「未来を自分で選択できる社会をつくる」をビジョンに、「『あなたがいてよかった』をすべてのひとに」をミッションに掲げる株式会社ニットは、そもそもどんな経緯で誕生し、これからどんな方向に向かっていくのか。

第1回では、学生時代の秋沢さんについてを語ってもらいましたが、第2回はニットを企業するまでに至った、社会人時代を語ってもらいます。

第1回 人を動かす原動力は「未来をつくるワクワク感」
第3回 「やりたい」「やってみたい」をあきらめなくていい社会に

目次

・ 急成長する中国で、半年間の“武者修行”
・「数字を追うだけでいいのか?」という疑問
・「新しい働き方」を提案するサービスに感じた可能性

急成長する中国で、半年間の“武者修行”

—インターン生とは思えないほど、バリバリ働いていたそうですね。

大学2年生の秋から株式会社ガイアックスでインターンを始めて、仕事に夢中になっているうちに大学4年生の春になっていました。そのころには営業のコツをつかんで、ガンガン契約を取れるようになり、1年間で6000万円売り上げるまでになっていました。

そんなとき、ガイアックスから「本格的にウチでやってみないか?」と声をかけられました。ガイアックスでは中国進出を計画していて、その先遣部隊として市場調査などをしてほしいと。それで単身、中国 上海に乗り込みました。

—単身で中国? すごいインターン生ですね(笑)。

2003年の当時、中国市場がものすごいスピードで成長していたころでした。上海は建設ラッシュで、至るところでインフラ工事が行われていて、街じゅうが活気にあふれていました。ラーメン屋のおじさんですら「オレたちが中国経済を引っ張って行くんだ」みたいな勢いで、目力が強くて。「日本の高度経済成長期って、こんな感じだったのかな」と想像しましたね。それで、何度か出張させてもらった後、約半年間、上海に滞在することになりました。

ー学業はどうしたんですか?

ゼミは毎回出席しなくてはならなかったんですが、経済学部だったので
「中国や東南アジア経済について学んできます。だから出席を免除してください」
とゼミの先生に頼んでみたら、OKが出たんです。

—さすがの交渉力!上海ではどんな仕事をしたんですか?

ガイアックスのOBが中国で起業して人材紹介や人材派遣などのビジネスをしていたので、そこに籍を置かせてもらいました。その会社で営業をしながら、ガイアックスのサービスが中国のマーケットに合うかリサーチして、レポートにまとめて報告していました。

—どうやって営業していたんですか?

飛び込み営業です。営業先の企業が入っている高層ビルの受付で、たとえばパナソニックの表示があったら
「パナソニックに用があるんですけど」
「アポは取っていますか?」
「えっと……、鈴木さんだったかな?」
みたいな感じで、受付を突破して。60〜70階あるビルの最上階までエレベーターで上がって、営業先を回りながら階段で降りて営業活動をしていました。
警備員に追いかけ回されたこともありましたよ(笑)。

—上海で飛び込み営業…すごい度胸ですね。

「これをクリアしたら、もっとおもしろいことがあるはず」と思いながらやっていました。どうせならなんでも楽しみながらやろうという感じで。そんなこんなで中国での仕事を終えて帰国し、無事に大学を卒業して、2004年、そのままガイアックスで働くことになりました。

「数字を追うだけでいいのか?」という疑問

—社員になってからは、どんな業務を担当しましたか?

広告営業の新規事業を担当することになりました。当時ガイアックスはIPOを目指していたこともあり、とにかく売上目標を達成することを重視していました。終電で帰ったり徹夜したりすることが当たり前の環境で働いていましたね。

がむしゃらに働いて売上目標を達成し、その成果が認められて、インターン生10人をまとめるチームリーダーになりました。その後もさらに売上を伸ばして、2006年、24歳のときに営業部門の部長になりました。当時は遅くまで働いていましたが、毎日が学園祭の前日みたいにオフィスに活気があって、誰もががむしゃらになって働いていました。そういった環境が楽しくてワクワクしていたことを覚えています。

ー早いスピードでステップアップしていったんですね。その後は?

27歳のとき、自分が想い描いていたリーダー像や価値観が崩れて、考えさせられる出来事がありました。同じ部門のメンバーから面談で、「秋沢さんとはもう一緒に働けない」と言われてしまったんですよ。当時僕は、売上目標を達成できない人を追い込むようなやり方で、メンバーをマネジメントしていたんです。

それで、上司から「そのやり方だと逃げ場がなくて、メンバーが疲弊してしまう」と指摘されました。その人の成長のためによかれと思ってやっていたことが、本人にとっては苦痛だったと知ってとてもショックでしたね。今考えれば、独りよがりな考え方だったとも思います。

このとき、大学時代のサークルのことを思い出しました。僕自身が「チームでは、それぞれが大事な役割を担っている」とメンバーに言っていたのに、気づいたら「できる人」「できない人」と、線引きをするようになっていて。この出来事をきっかけに、一人ひとりに合わせて対応を考えるようになりました。

もう一方で、どんどん上がっていく売上目標に対して、「この数字にどんな意味があるのか?」と考えるようになりました。当時、僕は会社の半分の売上を背負う立場になっていたので、数字はもちろん追いかけていかざるを得ない状況でした。でも、売上目標を達成することも大事だけど、提供しているサービスがお客さんのためになっている、もっと価値あるサービスを提供できないか、そんなふに考えるようになり始めました。

その数年後の2014年、32歳のとき、今が起業するタイミングだと感じて、ガイアックスを退職しました。

「新しい働き方」を提案するサービスに感じた可能性

—退職後、すぐに起業したんですか?

先輩から、「起業するならゆっくり時間をとって考えたほうがいい。どうせ目標が決まったらまたハードに働くことになるから」とアドバイスされ、起業する前に自分の将来についてじっくり考えてみることにしました。それで、以前からやってみたいと思っていた、アメリカ横断旅行へ。(創業ストーリー

ーアメリカ横断旅行で何を得ましたか?

前職を退職してからフリーランスをしてたのですが、物理的にお客さまへ訪問することができないので、オンラインで仕事をさせてもらうことになりました。このとき初めてリモートワークを経験して、パソコン一台あればどこにいても仕事はできるし、ストレスもないし、生産性も上がるということを実感しました。20代は仕事一辺倒で時間や場所を限定して働いていましたが、自分の人生でやりたいことと仕事は両立してやれるもんだなと。つまり、「自分で働き方を選択すればモチベーションが上がるし、私生活にもいい影響を及ぼす」ということです。

この体験から、「リモートワークで人の働き方と生き方を変えられるかもしれない、そしてそれは、世の中にとって価値あるサービスになるはずだ」と直感で感じました。

これがニットでいまも考え方の元になっている「ライフワークシナジー」の原体験です。

ーいよいよニットを起業することになるんですね。次回は、どんな想いでニットを経営されているのかお伺いします。

「ニット代表、秋沢社長を直撃! 第3回「やりたい」「やってみたい」をあきらめなくていい社会に」

HELP YOU ライター:小笠原綾子

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