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現実を前向きに捻じ曲げる。中山間地域の農業の未来を共に切り拓く仲間募集!

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on 2018/01/09

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現実を前向きに捻じ曲げる。中山間地域の農業の未来を共に切り拓く仲間募集!

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坂和 貴之

1990年東京生まれ。FoundingBaseキーマン第1期生として、2012年度から2年間島根県津和野町に滞在。「これからの町を担う魅力的な産業づくり」をテーマに掲げ、就農支援プログラムや観光業と連携したまるごと津和野マルシェ事業を立ち上げる。2014年秋、吉備中央町の始動に合わせて株式会社FoundingBaseに参画。

地域に成長させてもらった過去。これからは、地域の成長を実現するチームを創る。

坂和 貴之さんのストーリー

福井 健

大阪府出身の27歳です。国際基督教大学を退学後、FoundingBaseプログラムに携わり、2年間島根県津和野町で高校魅力化プロジェクトを立ち上げを行った後、株式会社FoundingBaseに採用・広報担当として入社。 年間300人程度の学生・第二新卒の若者との面談を行い、採用に関しては「その人の望む生き方」「信念と覚悟」を問うことを哲学に取り組んでいる。

林(山本) 賢司

1986年生まれ。大学在学中に地方のオモシロさと可能性に惚れ込み、卒業後は独立してまちづくりに関わる。島根県津和野町のスーパー公務員との出会いから、「地方の衰退を止めるには”若者が戻る仕組み”を作ることが必要」と気づく。変わり者が集まる飲み会で現パートナーの佐々木と出会い、「若者を期間限定で地方自治体の首長付にするプログラム」を思いつく。同時期、一般社団法人アショカ・ジャパンのSecretariat and Program Assistantも務める。2014年2月、佐々木と共に株式会社FoundingBaseを設立し、共同代表取締役に就任。

株式会社FoundingBaseのメンバー

1990年東京生まれ。FoundingBaseキーマン第1期生として、2012年度から2年間島根県津和野町に滞在。「これからの町を担う魅力的な産業づくり」をテーマに掲げ、就農支援プログラムや観光業と連携したまるごと津和野マルシェ事業を立ち上げる。2014年秋、吉備中央町の始動に合わせて株式会社FoundingBaseに参画。

なにをやっているのか

・生業、風景、文化を後世へと繋ぐ  島根県津和野町。私が農業の事業を展開しているこの山陰の小さな山あいの町には、今から約9000年前にはすでに人が住み着いていた形跡が残っている。約3000年前には九州文化圏の影響を強く受けこの地に住む人々は稲作を始めた。その後も山陰と山陽を繋ぐ交通の要所として栄えたこの町にはいつも「農業」という生業があった。しかし、この町の歩んできた「農業」の道は常に険しいものであった。町の面積の9割を占める山林、山がちな土地ゆえ耕作可能な土地が少なく、江戸時代には4万石ほどの石高しかなかった。けれども、この町で生きてきた先人たちはそれでも生業を守り続けた、いや、攻めて繋ぎ続けたと言うべきであろうか。山あいの土地だからこそ興せる業をと、和紙の原料となる楮の栽培を始め、独自の流通システムを築き財を成した。石高は、一時は3倍以上の15万石にまで伸びたと言われる。そこにあったのは山に囲まれた町で山野と共存する人々の生きる風景であった。険しい道を歩んできたからこそ生まれたものもある。それは津和野に脈々と流れる文化である。災害と凶作により一時は15万石もあった石高が激減してしまった江戸後期、それまで蓄えていた財を教育に投資し始めた。身分の上下を問わず優秀な人材を採用し始め、学問を奨励し、若く有能な人材を育み続けた。その結果、津和野からは「哲学」という言葉を生み出した西周や、言わずと知れた明治の文豪森鷗外、地質学の父と呼ばれる小藤文次郎など多くの偉人を輩出してきた。  この町にはいつの時代も、農業という生業、それによって形作られる山野と人との風景、そしてそこで紡がれる文化があった。今、その灯火が消えようとしている。「稼げない」と人が農地から離れ、手入れがされなくなった田畑は荒れ果て、そこで紡がれてきた文化の担い手も少なくなり始めている。このような窮地に立たされているのはここ津和野町だけではない。年末年始のテレビ番組を揶揄したり、仮想通貨の急騰にうつつを抜かしている間にも、現実世界では人知れずあらゆる地域の生業、風景、文化の灯火が消えていっている。  それでいいのか、そうであっていいのか。「そうであってはいけない」そう強く思う私がいる。私自身は津和野町に生を享けたわけではないが、それでもなんの因果かこの国に生を享け、この土地に住んだ人たちがバトンを繋いできた生業、風景、文化に触れ、素直に素敵だと感銘を受ける一人の人間として、このバトンを後世へと繋ぎたいと感じた。単なる「農業ビジネス」じゃない、「地域振興」じゃない。人が生きてきた証としての生業、風景、文化を後世へと繋ぐのだ。 ・「そうだ、みんな一緒におよぐんだ。」  ではどうすれば。どうすれば、人が生きてきた証としての生業、風景、文化を後世へと繋ぐことができるのかを考えたとき、小学校の頃に読んだ1冊の絵本を思い出した。「スイミー」という絵本である。教科書にも採用されていたので記憶している人も多いかもしれない。  海にみんな赤い色をした小さな魚の兄弟たちがいた。その中に1ぴきだけ真っ黒で誰よりもはやく泳げるスイミーがいた。ある日、大きなマグロが突っ込んできて、小さな赤い魚たちを1ぴき残らず飲み込んだ。逃げられたのはスイミーだけ。ひとりぼっちになってしまったスイミーは暗い海の底を泳いだ。怖くてもさみしくても、悲しくても。だけどつらいことばかりではない。虹色のゼリーのようなくらげ。水中ブルドーザーみたいな伊勢えび。すばらしいもの、おもしろいものを見るたびにスイミーはだんだん元気になった。あるとき、岩陰にスイミーの兄弟たちとそっくりの赤い魚たちをみつける。スイミーは出てきてみんなで遊ぼうと声をかける。「だめだよ」大きな魚に食べられてしまうことを恐れて出てこようとしない魚たち。何かいい方法はないかとスイミーは考える。「そうだ!みんな一緒におよぐんだ。」スイミーはみんなで一緒による泳いで大きな魚のふりをすることを思いついた。スイミーは教えた。決して離れ離れにならないこと。みんな持ち場を守ること。みんなが1ぴきの大きな魚みたいに泳げるようになったとき、スイミーは言う「ぼくが、めになろう。」そうして大きな魚を追い出した。 津和野町の一人ひとりの農家さんたちも一人ではグローバリズムの現代社会の市場では戦えるだけの体力はない。だからこそ、「そうだ!みんな一緒におよぐんだ。」と私は言いたい。津和野町の農家さんたちと一緒に大きな魚のふりをして大海原をおよぎたい。小さなことでいがみ合って離れ離れになったり、自分だけが食えればいいと持ち場を手放したりすることなく、一致団結して消えていこうとする灯火を後世へと繋ぎたい。
山あいの小さな町ですが、そこには人の生きざまが刻まれている風景があります
これまでも農家さん、農業従事者、役場の方々、町のいろんな人とタッグを組んで津和野町の農業を前へと進めてきました
小さな条件不利な町ですが、そこには志をもった農家さんがたくさんいます
大量生産はできないけれど、どの作物も丹精込めて作られているものばかりです

なにをやっているのか

山あいの小さな町ですが、そこには人の生きざまが刻まれている風景があります

これまでも農家さん、農業従事者、役場の方々、町のいろんな人とタッグを組んで津和野町の農業を前へと進めてきました

・生業、風景、文化を後世へと繋ぐ  島根県津和野町。私が農業の事業を展開しているこの山陰の小さな山あいの町には、今から約9000年前にはすでに人が住み着いていた形跡が残っている。約3000年前には九州文化圏の影響を強く受けこの地に住む人々は稲作を始めた。その後も山陰と山陽を繋ぐ交通の要所として栄えたこの町にはいつも「農業」という生業があった。しかし、この町の歩んできた「農業」の道は常に険しいものであった。町の面積の9割を占める山林、山がちな土地ゆえ耕作可能な土地が少なく、江戸時代には4万石ほどの石高しかなかった。けれども、この町で生きてきた先人たちはそれでも生業を守り続けた、いや、攻めて繋ぎ続けたと言うべきであろうか。山あいの土地だからこそ興せる業をと、和紙の原料となる楮の栽培を始め、独自の流通システムを築き財を成した。石高は、一時は3倍以上の15万石にまで伸びたと言われる。そこにあったのは山に囲まれた町で山野と共存する人々の生きる風景であった。険しい道を歩んできたからこそ生まれたものもある。それは津和野に脈々と流れる文化である。災害と凶作により一時は15万石もあった石高が激減してしまった江戸後期、それまで蓄えていた財を教育に投資し始めた。身分の上下を問わず優秀な人材を採用し始め、学問を奨励し、若く有能な人材を育み続けた。その結果、津和野からは「哲学」という言葉を生み出した西周や、言わずと知れた明治の文豪森鷗外、地質学の父と呼ばれる小藤文次郎など多くの偉人を輩出してきた。  この町にはいつの時代も、農業という生業、それによって形作られる山野と人との風景、そしてそこで紡がれる文化があった。今、その灯火が消えようとしている。「稼げない」と人が農地から離れ、手入れがされなくなった田畑は荒れ果て、そこで紡がれてきた文化の担い手も少なくなり始めている。このような窮地に立たされているのはここ津和野町だけではない。年末年始のテレビ番組を揶揄したり、仮想通貨の急騰にうつつを抜かしている間にも、現実世界では人知れずあらゆる地域の生業、風景、文化の灯火が消えていっている。  それでいいのか、そうであっていいのか。「そうであってはいけない」そう強く思う私がいる。私自身は津和野町に生を享けたわけではないが、それでもなんの因果かこの国に生を享け、この土地に住んだ人たちがバトンを繋いできた生業、風景、文化に触れ、素直に素敵だと感銘を受ける一人の人間として、このバトンを後世へと繋ぎたいと感じた。単なる「農業ビジネス」じゃない、「地域振興」じゃない。人が生きてきた証としての生業、風景、文化を後世へと繋ぐのだ。 ・「そうだ、みんな一緒におよぐんだ。」  ではどうすれば。どうすれば、人が生きてきた証としての生業、風景、文化を後世へと繋ぐことができるのかを考えたとき、小学校の頃に読んだ1冊の絵本を思い出した。「スイミー」という絵本である。教科書にも採用されていたので記憶している人も多いかもしれない。  海にみんな赤い色をした小さな魚の兄弟たちがいた。その中に1ぴきだけ真っ黒で誰よりもはやく泳げるスイミーがいた。ある日、大きなマグロが突っ込んできて、小さな赤い魚たちを1ぴき残らず飲み込んだ。逃げられたのはスイミーだけ。ひとりぼっちになってしまったスイミーは暗い海の底を泳いだ。怖くてもさみしくても、悲しくても。だけどつらいことばかりではない。虹色のゼリーのようなくらげ。水中ブルドーザーみたいな伊勢えび。すばらしいもの、おもしろいものを見るたびにスイミーはだんだん元気になった。あるとき、岩陰にスイミーの兄弟たちとそっくりの赤い魚たちをみつける。スイミーは出てきてみんなで遊ぼうと声をかける。「だめだよ」大きな魚に食べられてしまうことを恐れて出てこようとしない魚たち。何かいい方法はないかとスイミーは考える。「そうだ!みんな一緒におよぐんだ。」スイミーはみんなで一緒による泳いで大きな魚のふりをすることを思いついた。スイミーは教えた。決して離れ離れにならないこと。みんな持ち場を守ること。みんなが1ぴきの大きな魚みたいに泳げるようになったとき、スイミーは言う「ぼくが、めになろう。」そうして大きな魚を追い出した。 津和野町の一人ひとりの農家さんたちも一人ではグローバリズムの現代社会の市場では戦えるだけの体力はない。だからこそ、「そうだ!みんな一緒におよぐんだ。」と私は言いたい。津和野町の農家さんたちと一緒に大きな魚のふりをして大海原をおよぎたい。小さなことでいがみ合って離れ離れになったり、自分だけが食えればいいと持ち場を手放したりすることなく、一致団結して消えていこうとする灯火を後世へと繋ぎたい。

なぜやるのか

小さな条件不利な町ですが、そこには志をもった農家さんがたくさんいます

大量生産はできないけれど、どの作物も丹精込めて作られているものばかりです

・津和野町の農業の司令塔 津和野町の農業の司令塔となること。そうして、生業や風景、文化の灯火を後世へと繋ぐこと。これが私のやっていること。 今の中山間地の農業が抱える一番の課題は、農家が小規模農家であることと、作業の効率化が難しいということが挙げられる。それ故、まとまった生産量を確保することが難しく、野菜の出荷先も限られてしまう。一方で、自分たちで営業をする時間も確保できず、新規の販売先の開拓も困難である。一足とびに農家の規模を大きくしたり、作業効率をあげようとしたり、出荷先を増やすのではなく、まずはみんなが協力し合える関係性を作ることが大事だと考え『まるごと津和野マルシェ』という朝市を立ち上げた。地産地消を推進することを目的としてスタートしたこの朝市は、小規模ながらコツコツと開催を続け、町民に親しまれる朝市として成長してきた。一つのコミュニティとして成長してきた『まるごと津和野マルシェ』で今取り組むべきことは農家の方々が団結し、自分たちの生産・流通・販売のプロセスを全て見直して、業務の分業化と効率化を図ることだと考えている。例えばみんなで出荷量を計画して同じ作物を作ったり、あえて時期をずらして作って付加価値を付けたり、流通や販売の方法も話し合って工夫したりすること。 そうした協力関係の司令塔となるべく、津和野町役場、津和野の農家の方々や農業従事者の方々と団結して、「津和野町農業の司令塔」となる地域商社『まるごと津和野プランニング(仮称)』を立ち上げることになった。津和野町の農業の未来を切り拓く乾坤一擲の一手として、この地域商社を共に前進させる仲間を募りたい。 ・希望を抱く農家さんの存在 窮地に立たされている津和野町の現状をつぶさに見渡したとき、そこには希望を抱く農家さんがいることに気付かされた。みんなが悲観的になり、諦めているのではなく、困難な状況であったとしても果敢にそこに立ち向かわんとする農家さんたちの姿。独自で販路を築き、「また食べたい」と思ってもらえるように箱詰めしたメロン一つ一つに「何日頃が食べごろですよ」とメッセージを添える農家さん。地域にいるじいさんばあさんたちも働く喜びを感じながら暮らせる農業が必要だと、集落総出でお供え用の榊を栽培する仕組みをゼロから作り上げた農家さん。この地域にある文化や空気が好きだとおばあちゃんの農業を継ぎ、若い感性を大事に試行錯誤しながらひたむきに農業に向き合う女の子。この町に惚れ込みわざわざ他の地域から移住してくる多くの新規就農者。彼らはみんな、世代も性別も、理想とする農業の形も違うけれど、「この町で農家として暮らしていきたい」という思いは共通している。そうした人たちに触れていく中で、彼らの希望が実現するような仕事をしていきたいと感じた。 FoundingBaseは、誰もが希望を持てる社会を作ることをミッションとして掲げている。私にとってそのミッションは、津和野町の農家が希望を持てる仕組みを作ること、と言い換えられる。この地に生まれこの地で農業を志す人、この地に憧れ移住して農業に取り組む人、そうした人たちが望む希望が叶えられるように、地域商社を立ち上げる。 ・無理難題、さればこそ。 言うは易し、行うは難し、これは百も承知である。繰り返しになるが、農業分野でこのような窮地に立たされている自治体は津和野町だけではない。世の中を見渡すと、こうした状況を好転させるような取り組みが出てきている。しかしながら、世の中で取り上げられている農業分野の取り組みの中には一部の特殊な農家だけが儲かっていて地域全体で見るとそれほどという事例があったり、地域を包括的に取り上げる仕組みであったとしても津和野町のような条件不利の小さな町は、「規模が小さいから」と相手にされなかったりしてしまっている。解決しやすいこれまで誰も取り組んでいなかった課題は解決され始めているが、解決しにくい津和野町のような事例は解決されないままの状態が続いてしまう。言い換えると、津和野町と同じような状況にある条件不利の小さな町では、そこにある生業や風景、文化の灯火は消えてしまうということだ。私があなたと共に津和野町で農業の未来を切り拓く仕組みを作ることは、この構造にくさびを打つことにもつながる。つまり、これは津和野町に限った課題を解決するのではなく、津和野町と同じような状況にある条件不利の小さな町で消えかかっている灯火を後世へと繋ぐための一手となるかもしれないということである。無理難題、さればこそ、全身全霊で取り組む意義があるのではないか。

どうやっているのか

・愚直に目の前の一人と向き合う  抽象的で大きなことばかり述べ立てたが、日々の業務は華やかなことばかりではない。本当に津和野町の農家さんたちを巻き込んでスイミーのように大きな魚のふりして一緒におよごうとしたときには、愚直に目の前の一人と向き合うスタンスが大事になる。例えば、野菜の集荷の方法一つ変えるにしても、単に新たな情報技術を持ち込み、システムを導入すれば済む話ではない。これまで何十年も同じやり方でやってきた人たちには、その人たちなりの考え方やこだわりがある。そうした想いをきちんと汲み取りつつ、より効率的で、より負担の少ないやり方を提案し、彼らの習慣を変えていく。相手を書類上の一人の農家として考えるのではなく、三宅さん、増子さん、広瀬さん、というようにきちんと一人の人間として愚直に向き合うことがとても大事。時には深夜に「ちょっとパソコンの使い方がわからんけえ、来てくれ」と呼び出しがあるかもしれない。時には「集落で動けんばあさんの田んぼに田植えをするけえ、来てくれ」と駆り出されるかもしれない。「こんなこと仕事じゃない、適当にやろう」という心持ちは相手に伝わる。くだらないことかもしれないし、やりたいと思うことじゃないかもしれない。しかし、そうした小さな「くだらないこと」を愚直に積み重ねるからこそ、信頼関係を築くことができ、無理難題を捻じ曲げることができるのではないか、私はそう信じてこれまでも農家さんたちと向き合ってきた、だからこそ仲間になるあなたとも、農家さんたちとの密な信頼関係の先に見える希望の光を一緒に見たいと思う。 ・失敗を恐れず果敢に  私たちが取り組むことに「絶対成功」はない。なぜならば、取り組んでいる課題自体が無理難題に近いような課題であり、そこに模範解答は存在しないからである。つまり、打つ打ち手や、行うことすべてが、トライでありそこには失敗もつきものです。しかし、私はトライアンドエラーの繰り返しの先に必ず希望があると考えている。最初からうまくいく取り組みなんてない。だからこそ、お互いの失敗を受け入れられるような信頼関係が必要であり、失敗したとしてもそこでめげない信念の強さが必要となる。必要なものは、スキルでも実務経験でも華やかな経歴でもない。人の生きた証としての生業、風景、文化を後世へと繋ぐバトンリレーの一翼を担いたいという強い信念と、目の前の人に愚直に向き合うスタンス、そして失敗を恐れずに果敢にチャレンジする気持ちである。これまで長い時間をかけて培われてきた津和野町の農業の仕組みの中で、残す部分と改善すべき部分を考え、50年後の津和野農業を希望と魅力の溢れるものにしたいと考えている。

こんなことやります

津和野町の農業の未来を切り拓くための地域商社『まるごと津和野プランニング(仮称)』を立ち上げます。 個別農家や農事組合法人への生産拡大の打ち手を打つと同時に、津和野町に存在する2つの道の駅での域内流通額を向上させることと、加工品の都市部への販路拡大を行うことで、農業生産額の底上げを行っていきます。 ■ 2018年に取り組む課題 2018年は、下記の4つの問いを解決する取り組みを行っていく予定です。 1)「どうすれば、個人事業主である各生産者が一つの生産プロセスを共有し、それぞれのやり方を変えて業務分担をすることができるか?」 「チームを組んで役割分担をし、業務を効率化する」というのは、言うことは簡単ですが、実現するのはそう簡単なことではありません。それぞれの生産者はもちろん同じ働き方をしているわけではなく、自分のやり方やペースで生産に取り組んでいるからです。各生産者が一つのプロセスを共有するとして、「そればどのようなプロセスなのか」「何を目的とするのか」「良し悪しの基準は誰がどう決めるのか」などを検討し、具体的に提案していきます。 2)「どうすれば、生産物の種類や出荷時期を最適化できるか?」 上記のテーマにも関係しますが、生産の調整をどのように決めるのかも大きな課題です。それぞれが得意な種類の生産物を持っていて、年間の業務ペースも決まっているからです。そのペースをみんなが変えて、「この種類を、それぞれがこのペースに合わせて出荷しよう」ということを決めていきます。 3)「どうすれば、より効率的に野菜を集荷地に集めることができるか?」 野菜を流通させるということは、中山間地の小規模農家にとって大きな課題です。さらに高齢化が進むことで、これまで行っていた業務を行えなくなってきています。この改善については新たなアイデアを導入して実装していきます。 4)「どうすれば、定期的に新商品を作れたり、都市で販売することができるか?」 「生産のプロフェッショナル」である農家が、商品開発や販売にも思考を巡らせるにはどうしたらいいか。ただ専門業者に発注して開発を依頼するのではなく、自分たちが「出口の視点を持った生産」を行うにはどうしたらいいのか。マーケティング的な視点も持ち合わせながら取り組んでいきます。 それぞれ問いには、小さな課題が複雑に絡み合っていたり、関係者同士の利害関係が生じていたりします。「解決は困難」と一言でまとめたくなる時もあります。しかし、誰も答えを分からないことなので、みんなで話し合って仮説を作り、一つずつ検証して進んでいくしかありません。
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2014/02に設立

90人のメンバー

東京都台東区上野桜木1-14-21 高遠レジデンス上野桜木B1F