・生業、風景、文化を後世へと繋ぐ
島根県津和野町。私が農業の事業を展開しているこの山陰の小さな山あいの町には、今から約9000年前にはすでに人が住み着いていた形跡が残っている。約3000年前には九州文化圏の影響を強く受けこの地に住む人々は稲作を始めた。その後も山陰と山陽を繋ぐ交通の要所として栄えたこの町にはいつも「農業」という生業があった。しかし、この町の歩んできた「農業」の道は常に険しいものであった。町の面積の9割を占める山林、山がちな土地ゆえ耕作可能な土地が少なく、江戸時代には4万石ほどの石高しかなかった。けれども、この町で生きてきた先人たちはそれでも生業を守り続けた、いや、攻めて繋ぎ続けたと言うべきであろうか。山あいの土地だからこそ興せる業をと、和紙の原料となる楮の栽培を始め、独自の流通システムを築き財を成した。石高は、一時は3倍以上の15万石にまで伸びたと言われる。そこにあったのは山に囲まれた町で山野と共存する人々の生きる風景であった。険しい道を歩んできたからこそ生まれたものもある。それは津和野に脈々と流れる文化である。災害と凶作により一時は15万石もあった石高が激減してしまった江戸後期、それまで蓄えていた財を教育に投資し始めた。身分の上下を問わず優秀な人材を採用し始め、学問を奨励し、若く有能な人材を育み続けた。その結果、津和野からは「哲学」という言葉を生み出した西周や、言わずと知れた明治の文豪森鷗外、地質学の父と呼ばれる小藤文次郎など多くの偉人を輩出してきた。
この町にはいつの時代も、農業という生業、それによって形作られる山野と人との風景、そしてそこで紡がれる文化があった。今、その灯火が消えようとしている。「稼げない」と人が農地から離れ、手入れがされなくなった田畑は荒れ果て、そこで紡がれてきた文化の担い手も少なくなり始めている。このような窮地に立たされているのはここ津和野町だけではない。年末年始のテレビ番組を揶揄したり、仮想通貨の急騰にうつつを抜かしている間にも、現実世界では人知れずあらゆる地域の生業、風景、文化の灯火が消えていっている。
それでいいのか、そうであっていいのか。「そうであってはいけない」そう強く思う私がいる。私自身は津和野町に生を享けたわけではないが、それでもなんの因果かこの国に生を享け、この土地に住んだ人たちがバトンを繋いできた生業、風景、文化に触れ、素直に素敵だと感銘を受ける一人の人間として、このバトンを後世へと繋ぎたいと感じた。単なる「農業ビジネス」じゃない、「地域振興」じゃない。人が生きてきた証としての生業、風景、文化を後世へと繋ぐのだ。
・「そうだ、みんな一緒におよぐんだ。」
ではどうすれば。どうすれば、人が生きてきた証としての生業、風景、文化を後世へと繋ぐことができるのかを考えたとき、小学校の頃に読んだ1冊の絵本を思い出した。「スイミー」という絵本である。教科書にも採用されていたので記憶している人も多いかもしれない。
海にみんな赤い色をした小さな魚の兄弟たちがいた。その中に1ぴきだけ真っ黒で誰よりもはやく泳げるスイミーがいた。ある日、大きなマグロが突っ込んできて、小さな赤い魚たちを1ぴき残らず飲み込んだ。逃げられたのはスイミーだけ。ひとりぼっちになってしまったスイミーは暗い海の底を泳いだ。怖くてもさみしくても、悲しくても。だけどつらいことばかりではない。虹色のゼリーのようなくらげ。水中ブルドーザーみたいな伊勢えび。すばらしいもの、おもしろいものを見るたびにスイミーはだんだん元気になった。あるとき、岩陰にスイミーの兄弟たちとそっくりの赤い魚たちをみつける。スイミーは出てきてみんなで遊ぼうと声をかける。「だめだよ」大きな魚に食べられてしまうことを恐れて出てこようとしない魚たち。何かいい方法はないかとスイミーは考える。「そうだ!みんな一緒におよぐんだ。」スイミーはみんなで一緒による泳いで大きな魚のふりをすることを思いついた。スイミーは教えた。決して離れ離れにならないこと。みんな持ち場を守ること。みんなが1ぴきの大きな魚みたいに泳げるようになったとき、スイミーは言う「ぼくが、めになろう。」そうして大きな魚を追い出した。
津和野町の一人ひとりの農家さんたちも一人ではグローバリズムの現代社会の市場では戦えるだけの体力はない。だからこそ、「そうだ!みんな一緒におよぐんだ。」と私は言いたい。津和野町の農家さんたちと一緒に大きな魚のふりをして大海原をおよぎたい。小さなことでいがみ合って離れ離れになったり、自分だけが食えればいいと持ち場を手放したりすることなく、一致団結して消えていこうとする灯火を後世へと繋ぎたい。