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長谷川隆一
東京下町、墨田区業平で鮮魚商を実家で営む両親の元に長男として生まれ、下町の愛情に包まれて幼少期を過ごしました。 小・中・高と地元墨田区の公立学校に進み、幼馴染、友人を地元に沢山持つことが出来、ごくごく普通に幸せに育ちます。この頃は将来は実家の魚屋を継ぐものと思っていました。 その後明治大学経営学部に進学、ここで視野が大きく広がることになります。入学式で勧誘された「明治大学混声合唱団」というサークルに所属したことで、大学4年間はサークル活動が主、勉強が従となります。音楽監督高田作造先生に大いに影響を受け、音楽と声楽に魅せられ、その頃は本気で「ミラノスカラ座を超える合唱団になりたい」と考えていました。ここで120人の組織の運営を体験したことがのちの社会人生活に活かされました。 この時に「卒業即家業」ではいずれ我が家は潰れると考えるようになり、一旦大手企業に就職することにし、ミサワホームに内定を頂きます。 卒業旅行は単独でイタリアを中心とした欧州のオペラハウスを巡り、欧州の文化(日本とは違う社会、心の広さ、光と影)を体感し、帰国。「世界を見ないといけない」と考えるようになりました。 ミサワホームに就職し、総務部総務課に配属され、よい先輩達に恵まれましたが、当時付き合っていた彼女に「本当に音楽やらないでいいの?」と言われたことが引き金となり「やらずに後悔して死ぬのは嫌だ」と、1年半後に退職します。その後自分に納得を得るまで約4年、独学で音楽声楽と対峙し、サントリーホール主催のオペラアカデミーで「努力だけでは超えられない現実」に気付き、自分の出来る領域で「音楽で人に幸せを与えよう」とサラリーマンに戻ることを決意し、現在の株式会社USENに再就職します。当初総務希望で面接を受けるも落選し「営業なら募集してる」と営業職で就職。「ここで認められて番組制作をしたい」と考えていましたが、営業で成果を出すにつれて、営業部が楽しくなり、そのままずっと営業畑で進むことになります。 このころ会社の同僚の紹介で現在の妻と出会い、30歳で結婚しました。最初に写真を見た時から魅かれてしまい、お付き合いをして半年後にプロポーズしました。「まだ結婚なんて考えていないうちにあれよあれよと進んでしまった」と妻はよく言います。今年で結婚22年になりますが、私の妻は世界中に彼女しかいません。 仕事は個人的には順調でしたが、先代社長が急逝し、2代目社長になって会社は正に別の会社になっていきました。本社移転、新規事業、株式公開、ハードな目標、転籍、規定の変更、ギスギスした空気。沢山のことを経験しました。特にすぐ近くで今迄一緒にやっていた人の人格が変わる、鬱で倒れて離脱するのを目の当たりにして「いつかはこの会社をやめよう」と心に決めていました。急成長をめざすことの光と影を体験するが出来ました。そしてこの経験も現在の私の礎になっています。この時代に感謝しています。 USENを14年勤めて退職し、元々実家が商売をしていたので、自分で商売をやることには抵抗は無く、むしろその様な運命だったのだと考えました。ただ衰退著しく且つ修行が必要な家業でとは考えず、目の前の場所でスカイツリー建設が決まっていたことで「何が出来るか」を模索しながら個人事業で不動産やアプリサービスの営業代行をしばらくしていました。中々ピンとくる事業アイデアが生まれず、今後も伸びるであろうインターネット業界で道を開こうとWeb用の言語をスクールで学びました。その時「その世界で先ずは仕事をしないと」と考え、一度就職することにして、大手企業のITILサービスを請負っている会社に再々就職します。このことがきっかけで、現在の会社の基礎となるビジネスと出会うことになりました。 私が現在経営する株式会社サンライトは「IT支援サービス」を行っています。この世界に存在する全ての会社が私たちのお客様となり得ます。今事業を始めて7年目になりますが、私は穏やかに自らのやりたいことと向き合い、そしてそれがしっかりと社会に貢献できていることを実感しています。 これ迄の人生で「もう本当に死んでもいい」と思える感動も、逆に「このまま狂い死ぬのでは!?」と思う程の絶望も味わいました。今は目の前の事業、目の前のお客様、目の前の社員に全力を注いでいます。 好きな言葉 「強くなければ生きてゆけない、優しくなければ生きる資格が無い」 尊敬する人 西郷隆盛 趣味 釣り、ガーデニング、カラオケ、スポーツ観戦 宜しくお願い致します。
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