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Kazuhiro Takeuchi

特定非営利活動法人 笑福会
私の生い立ちになりますが・・・そもそも私は、「福祉」を毛嫌いしていました。 高校生までは、「第一希望:パイロット」でした。ですから高校の時の進研模試や旺文社模試、代ゼミ模試すべてで、「宮崎航空大学校」を第一希望校にしていました。 パイロットになろうと思ったのは、親を喜ばせるためでした。(華やかですし^^; 努力が足りなかったこともあり、結局は、地方公務員(高校教諭)になりました。 ( 「先生」の仕事も十分に充実していましたw・・・生徒の検定試験・部活の練習試合、高校総体などなど・・楽しかった~^^ ) 「パイロット」や「学校の先生」という職業は、どんな田舎の人でも知っている職業です。親は、親戚や近所に自慢できる職業です。 しかし、公務員をやめ、青年海外協力隊でブルガリアに「システムエンジニア」として2年間派遣させていただきました。帰国後、世界で活躍できる人間になること夢見ていました。しかし・・・私がブルガリアに行っている間に、父は他界しました。 親を喜ばせるために・・と思ったことが、逆に親の最後に会えなかった・・・寂しい思いをさせてしまった。。。後悔の念しかありません。 「頑張る事」だけが、自分の気持ちを、後悔を和らげてくれるようになりました。 私は身体障害者の両親のもとで生まれ、育ちました。 父は筋ジストロフィーでした。 母は脳性小児麻痺です。 今時、健康であっても結婚する割合は減少しています。 私の両親が結婚するとき、周りからは 「障害者同士が結婚してどう生活するのか?」 「子供を産んでどう育てるのか?」 「生活費や子供の養育費はどうするのか?」 「そもそも仕事ができるのか?」 と反対されたようでした。 私が幼いころ、父は、まだ動くことができていました。 洋服の仕立てや裾上げなど、自分で仕事を取ってきて、自宅で働いていました。 母も、動くことは出来たので、旅館でお手伝いとして働いていました。日当が1日8時間で3,000円でした。今から25年ほど前までの事でしたから、バブルの頃の話です。 父も母も、なんで施設に行かなかったのかな?と考えることがあります。 昔は、障害のある人は、「山奥の施設」で、まるで隔離されているような場所に通所・入所していました。 今でも、昔ながらの施設は、山奥、あるいは町から離れた場所に残っています。 たぶん、父は、他の働いている人と同じように、町で、普通に、自分の意志で選択できる生活を選んだのだと思います。 普通の人と同じように、いろんな感情を持ち合わせていました。 夜になると、父は焼酎を飲んで、酔っ払い、いつも泣いていました。号泣していました。憂さ晴らしをしたくても、体が動きません。焼酎の入ったコップを持ち上げる事もできません。こたつの上のコップに自分の口を近づけて飲むしかありません。 母もストレスがたまり、家の中では文句しか言えません。 そのような中で、私は五体満足に生まれてきました。 今でも、両親の、その光景を思い出すと、涙が出ます。悔し涙です。父も母も必死でした。そして、社会が相手にしてくれません。 お金が無いのです。健康が無いのです。 そして、理解者が居ないのです。 これって、今では、障害者に限らず、健康な人にも同じような状況が広がっていると感じませんか? よく「障害者に優しい国は、みんなにも優しい国」って聞きます。 じゃ日本は「優しい国」なのでしょうか? 障害福祉に携わって、よく聞く言葉に 「県境(けんざかい)が幸せの境目(さかいめ)」 と聞きます。 本当にそうなんだ、と、県外の施設と交流すればするほど、実感させられます。 じゃ「宮崎県」は?・・・・ 先進国なはずの日本で、民度が高いはずの日本で。。。 今の日本が抱えている問題は、必ず、社会的弱者にしわ寄せがきます。 保育園の問題、高い未婚率等など・・・・・ こんなニッポンを変えたい って考えている「変人」です・・・・ 草の根レベルで、ガッツリ素敵な実践ができる人間になろうと、努力している途中の人間です。

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