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執筆当時24歳。無名時代の傑作。

前の記事を読んでみたらわかりますが、ちょっとした実験をしてみます。

続きを読みたい人や、なんの本、あるいは著者は誰か、などわかった人などはメッセージをください。

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「きっと、そうか。」そういって彼は現場から立ち去る。そして、この物語は終わるー。

 立ち去った彼は、失業中の若者である。彼は途方に暮れていた。あたりは夕暮れで、雨は上がりそうもない。周囲には誰もいない。ただ、ぼんやりと雨の音が聞こえるだけである。大不況と災害によって人生が立ち行かなくなった彼は、良心との対決を一人行っていたのだった。

 この物語は、非常に短い。しかし、だからといって軽い内容ではない。極めて濃密で、一種のリズムがある。濃密さとリズム、それはどこからくるのだろうか。

 では、まずは濃密さから考えてみよう。例えば、文中に登場する生き物の数を上げてみよう。キリギリス、キツネ、タヌキ、カラス、イヌ、ネコ、クモ、ヤモリ、サル、ニワトリ、ヘビ、と合計11種類も登場する。これらは、作中に登場する生き物として、あるいは「犬のように」、「猫のように」といった比喩として表現される。数ページの文章にこれだけの生き物が登場する作品も珍しい。ちなみに、比喩ではなく実際に登場する生き物は、キリギリス、キツネ、タヌキ、カラス、クモ、ヘビである。これらにはそれぞれ舞台装置としての役割が与えられている。どんな役割だろうか。

 例えば、キリギリスは孤独感を際立たせる役割を果たしている。彼は、これから起こる事件の現場で雨宿りをしている。普段なら、何人か同じように雨宿りをしている人がいてもいいはずなのに誰もいないのだ。誰もいない代わりに、キリギリスが一匹だけとまっている。そして、物語が進むにつれてそのキリギリスさえもいなくなり、彼は一人取り残されてしまう。つまり、キリギリスでさえも行く場所があるのに、彼にはないのである。

 キツネとタヌキはどうだろうか。実際文中では「狐狸」と書かれている。辺り一帯は、不況と災害によって荒廃しており人が寄り付かない場所になっていた。そのため、代わりに狐狸が住み着いているのである。ここまでの段階で、分かることがある。それは物語の中心である彼に自ずとフォーカスさせるような仕組みである。キリギリスは他に行くあてがあるし、狐狸たちは住処を見つけることができた。一方、彼はー?となるのだ。

 カラスはどうだろうか。同じく彼の孤独を際立たせる。日中はたくさんのカラスを見つけることができたし、夕暮れ間際までもその数を確認することはできた。しかし、日が暮れるとどこにも見当たらなくなってしまい、ただ残っているのはカラスの糞のみになってしまう。こうなるといよいよ寂しい。更にカラスのくだりで注目すべきところは、時間の流れの表現である。明るかった周囲がだんだん暗くなり、ついには真っ暗になる。こうした表現は、半ばスポットライトのようにして彼の存在を際立たせる。また、逡巡する彼をじわじわと物語の中枢へ誘う役割を果たしているようにも感じられる。

 そして、クモは文中では蜘蛛の巣として表現される。彼が乗り込んでいく屋根裏には蜘蛛の巣が張っている。誰の管理も行き届いていない場所だということが分かる。また、ヘビは売り物として登場する。どんな売り物なのかは、読んでからのお楽しみである。

 主人公である彼が一体どういう状況に置かれているのか、それをまるで一枚絵のように様々な要素で徹底的に埋め尽くしているのがこの作品の特徴である。「犬のように打ち棄てられ」、「猫のように身をちぢめ」、「守宮(やもり)のように足音を盗んで」、「猿のような」、「鶏の足のような」などの比喩は彼と彼を取り巻く状況を効果的に表している。こうした生き物の例以外にも、荒廃した町の様子、彼の持ち物、彼の身のこなし、息遣い、現場の状況などが卓越した描写力によって表現されている。作者が短編の名手として確かな地位を獲得したのも、ひとえにこの描写力あってのことだと思う。作者はその描写力によって、物語に彩りと濃密なリアリティを与えるのだ。

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