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反逆的な、あまりに反逆的な

久々の書評(?)です。誰のことを書いているでしょうか。

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これから紹介する詩はあるフランス人によって書かれた暴力的な詩である。

 くだらない書物に飽きた彼は酒場へ出かける。酒場へ入ろうとした時、ある一人の物乞いが彼の元へ寄ってくる。そして、帽子を差し出すのである。その時の目つきは「王位をも転覆しかねない、まことに忘れがたき」目つきだった。彼はその物乞いに襲いかかる。片目を殴り潰し、前歯を二本へし折り、生爪を剥がすのである。彼はその場所が警官の目の及ばないことを知っていた。さらに、肩甲骨が折れるほどの力で背中を蹴飛ばし、そこらに落ちていた丸太で叩きのめす。そして、彼はその物乞いが立ち上がるのを見る。今度はその物乞いが彼に飛びかかり、彼の両目を殴りつけ、歯を四本折り、丸太で殴りつけるのである。この喧嘩を経て、物乞いの誇りと生命を回復してやることができたと言って彼は満足する。

 これで話は終わりである。確か高校生の時にこの詩を読んだのだけれども、全く理解できなかった。そもそもこれは詩なのだろうか。なぜ物乞いを打ちのめさなければいけないのかよくわからなかった。しばらく時間が経ち、今まさにこの詩を読み返している。やっぱり納得いかないところが沢山ある。その一方でぼんやりとわかりそうなところも出てきた。

 ところで、このフランス人は一体何者なのだろうか。まず、どのようにして私が彼と出会ったのか振り返ってみたい。

 彼と私を結びつけたのは、芥川龍之介である。芥川は半ば彼の崇拝者だった。彼の一行の詩は人生に及ばないとまでいった。当時芥川を崇拝していた私は、芥川がこんなにいうならとんでもない詩人なのだろうと思った。予想通りとんでもない詩人だった。

 彼及びこの詩にキーワードを与えるとしたら何がふさわしいだろうか。いろいろ考えているうちに浮かんできたのが「反逆」である。彼は反逆の詩人である。では、何に反逆しているのだろうか。それは、詩それ自体に、聖なるものに、そして彼の生きたその時代に対してといえるだろう。

 詩に対する反逆。私は詩については詳しくない。だけれども、この詩を読んでみて違和感を感じた。それは、ほとんど散文のようにして書かれているからである。詩に対する個人的なイメージは、書き方に独特のルールがあり、歌詞のようでもあって音楽と密接な関係があるものだった。いわゆる韻文詩である。しかし、この詩は散文詩と呼ばれるものであり、通常私たちが読むような文章に近い。もちろん、フランス語で読めば歌うように読めるのかもしれない。けれども、やはり日本語で読む限りにおいてはそうはならない。散文詩について調べてみると、どうやら彼が完成させたらしい。それまでスタンダードだった韻文詩との対峙。私はこれを詩に対する反逆だと感じた。ただ、付け加えておくと彼は韻文詩の名手であることを忘れてはならない。彼の最も有名な詩集は主に韻文詩で書かれている。

 聖なるものに対する反逆。私は、キリスト教的な慈悲への反逆だと感じた。ラザロのたとえでは、金持ちは死後苦しみ、物乞いのラザロは救われた。彼はキリスト教に付き纏う死後の救済を否定したのではないか。だから彼は善意ではなく、暴力を施した。ここまで書いてみて、いやでもおかしいだろとは思う。だけれども、彼は徹底的なリアリズムを遂行しようとしたのだ。(もちろん、詩の中で一体どこまでがリアルなのかという疑問からは逃れられない。)つまり、彼は哀れな物乞いの今まさにその瞬間の救済を試みたのである。打ちのめされた物乞いがすっくと立ち上がり湧き上がる怨みを彼にぶちまける、まさにその瞬間彼は平等になったのである。それはまさに神の前ではなく。ふと私は、ある絵画を思い出した。それは、1857年に描かれたジャン・フランソワ・ミレーによる《落穂拾い》である。貧しい農民が腰を深く折り曲げ落穂を拾う有名な絵である。これは貧しくもつつましい農民社会を描いた絵画として評価される一方で、抑圧され腰を曲げられた農民がいつか反旗を翻すシンボルとして読み取られることもあった。私は、後者の説を思い出したのである。まさに、この物乞いも同じであると。この詩が書かれたのは1869年であり、時代も近いため当時の世相を考察する上で重要なポイントになると思う。そしてまた絵画と同時にニーチェを思い出した。とりわけ彼の著書『道徳の系譜』(1887年)に登場するルサンチマンの考えである。ルサンチマンとはつまり抑圧である。彼は、物乞いをルサンチマンから解放したのではないか。そして、彼は物乞いに暴力ではなく、カタルシスを施したのではないか。そういえばニーチェもまた聖なるものに対して反逆的であった。

 時代に対する反逆。およそこれまでの反逆がそのまま時代への反逆だといえるかもしれない。しかし、ここで詩の冒頭箇所を再度確認してみよう。彼は読んでいた書物に飽き飽きしていた。当時流行していたらしいその書物では、二四時間のうちに国民を富裕にする方策が論じられていたがその内実は、社会福祉の企業家たちが貧民に対してその身を奴隷にせよと忠告するものであった。一体それがどんな書物であったかはわからない。仮にあったとして、流行していたということは、それは当時の世相を反映したものだったのだと思う。彼はその流行に対して対抗しようとした。あくまでも個人的な想像ではあるが、およそ流行りのビジネス書のようなものだったのではないかと思う。彼はそこに欺瞞を見出したということである。ちょうどその欺瞞についてむかむかしていたところに物乞いがふらっと現れたのである。彼の天使はこう囁いた「他人と同等であることを証明するもののみが他人と同等であり、よく自由を征服する者のみが自由に値するのだ」と。そして次の瞬間彼は物乞いに殴りかかるのである。いや、確かに殴り合えば抑圧も生まれないし、むしろ互いに晴々するかもしれない、でもあまりにも極端ではないか、これだって欺瞞に満ちているじゃないか、と。しかし、こう考えている時ふとこれこそが一種の皮肉なのではないかと考えた。つまり、流行りのビジネス理論の残虐さを揶揄しているのだと。彼の暴力的な思想とそのビジネス理論とにどれほどの差異があるのだろうかーー?

 この反逆的な詩にはこんな意味が隠されている、みたいな話をしてきたがここで一旦白紙にしたい気もしてきた。というのも、単純に彼はかなりやばいサイコ野郎じゃないかと思いたくなってきたのである。ここまで書いて、何を言っているのかと思うかもしれないが、他の詩を読んでいて私の考えが揺らいできたのである。最後にその詩についてちょっと紹介しよう。

 彼の部屋はどうやら六階にあるらしい。彼は地上に貧しいガラス売りを見つけた。ガラス売りをわざわざ六階まで呼び寄せて、商品を物色するのだが、気に入ったものはないと言って追い返す。かわいそうなガラス売りはまた一階まで帰っていくのだが、その姿を見つけた彼は窓から小さな花瓶をガラス売りに向けてわざと落とすのである。びっくりしたガラス売りは、商品を全部落として台無しにしてしまうのである。そしてそれを見届けた彼はー本当にやばいと思うのだがー「美しき哉人生!美しき哉人生!」と叫ぶのである。やっぱり、彼は狂人なのかもしれない。

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