アモイ、台北滞在記(1992年)小松拓矢

1991末に中国福建省のアモイ、台北をれて、両岸から中国と台湾の微妙な関係を眺めてきました。中国を承認ずみの日本としては、両者の関係は中国の内政問題だから、介入すべき立場にありません。ただ、実際問題としては、中国の統治権の及ばない「台湾」が存在し、1972年の日中復交に際しても、日台間の経済交流などの継続は了解されており、現に貿易・投資関係などがあります。

中国の台湾統一工作は1979年の年初から始まり、「三通」(運輸、郵便、貿易を通ずる)を呼びかけました。また香港に適用をきめた1国で2つの制度を認める「一国両制」を台湾にも応用しました。これに対して台湾側は、蒋経国時代に「三不」政策を掲げました。かつて国民党が第2次国共合作で政権を失ったのに懲りたことから、中国共産党とは「接触せず、交渉せず、妥協せず」としてきました。

この「三不」は、民間ベースではかなり緩めてきましたが、公的ベースでは依然、この原則を維持しています。これは「一国両府」の方針と裏腹です。中国が台湾を政治実体(政府)として認める場合に限り、交渉に応じようというスタンスです。その代わり台湾は1991年の5月に、中国の大陸での統治権を認め、対大陸反攻の虚構をやめました。しかし、中国の一国両制論と台湾の一国両府論は基本的に食い違うため、長期にわたって平行線をたどるでしょう。

台湾当局は1991年3月、国家統一綱領を公布し、3段階に分けて「中華文化の統一中国国家」を実現しようと決めました。だが、その目標は「民主・自由・均富」だから、この点でも中国共産党の一党独裁制とぶつかります。また中国と台湾の経済格差は、1991年の1人当たりのGNP(国民総生産)で324ドル対8800ドルと1対27も開いており、この点からも一緒にはなりにくくなっています。

経済水準の向上によって台湾の民主化は進み、38年間も続いた戒厳令を廃止し、政党も多元化し、言論を自由化するなどの進展を見ました。議会機能は、立法院、国民大会、監察院の3者で営んでいますが、そのうち憲法の改正などを扱う第2回国民大会の選挙が1991年末行われました。執権党たる国民党(大陸からきた外省人の万年議員は引退)と筆頭野党の民主進歩党の争点は、「中台統一か台湾独立か」にありましたが、「台湾共和国」の独立を訴えた民進党は大敗しました。改選325議席中、国民党が71%強、民進党は20%にとどまりました。もともと台湾独立は戒厳令を引き継いだ国家安全法の違反でもあります。

中国は台湾への武力侵攻発動の条件の1つに、台湾の独立を掲げているから台湾の大衆は戦火を恐れた。さりとて統一もこわいので「不統不独」の現状維持が賢明だと判断しています。国家統一要綱にも、中国がのめない条件がついているのも知っています。そしてその心底には、やはり台湾ナショナリズムがあります。

中台関係の大筋は以上に尽きるが、経済も視野に入れた両者の接触状況はどうでしょうか。すでにアジア開発銀行には両者が加盟していますが、1991年11月ソウルで開催の第3回APEC(アジア・太平洋経済協力閣僚会議)では、中国は主権国家として、台湾は地域経済体として参加を認められました。ガットへの加盟も双方が申し込んでいますが、中国は自分の先行を条件として台湾の地域的加入を認めており、台湾の呼称問題を残すだけです。

この間、両者の貿易関係は深くなり、台湾の輸出超過だが、台湾側の輸入品目も広げています。1991年年の香港を通ずる間接貿易は58億ドルに上りました。香港経由の対中投資も、深センなど広東省、アモイなど福建省だけでなく、上海その他にも北上しつつあります。中国側としては、すでに1988年7月に台湾同胞の投資を奨励する国務院規定を公布していています。

こうしたう回投資は天安門事件直後も減りませんでしたが、台湾側が1990年にこれを公認するや一段とふえ、1991年年は237件、1・74億ドルに上りました。台湾側の経済部に登記済みの大陸投資企業は2500社、投資総額は約8億ドルに達しています。台湾側は1991年3月に民間法人の海峡交流基金会を設立して中国との人的、文化的交流、犯罪者の送還などに当たらせましたが、その後中国側も海峡両岸協会を設立しました。

1987年11月の里帰り解禁以来、台湾から大陸への渡航者は、観光と商用を含めて、4年余に400万人に上っています(大陸から台湾への来訪者は、延べ3万人)。電話の通話数もふえファクスの交信は1991年1年で800万回に上ったと聞きました。

小松拓矢

参考:http://www.youkudownload.com/

アモイ、台北滞在記(1992年)小松拓矢
小松拓矢