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誤解は虐待なのか

 私は、発達障害という特性上、誤解される事が多いです。それは、相手の悪意に関わらず、たいていは私に不利益になる事が多いです。
 (例としては、返事が短い→偉そう、嫌いなんだろう、とか、分からないふりをして怠けている、甘えだ、表現が直接的で生意気だ、何度も失敗してやり直すのはずるい、こだわるのは贅沢だ、人の気持ちが分からない→人を傷つけても何とも思わない「サイコパス」だ、等)
 今まで私は、相手に悪意はないのだからいじめや迫害にはならないと考えていました。現に、「あなたの為を思って言っている」と言う人もいて、私は感謝し、反省し、そしてその物事を敬遠する事が多くなっていきました。
 しかし、障害である事を理解できず追及するのは、例え悪意がなくとも我々にしてみれば傷つくのは同じことです。それに、「決め付け」や「疑い」にはある程度の悪意や自己満足が含まれています。そしてそれを強い口調で指摘する時点で善意ではないことは確かです。その点では誤解はいじめと同列のものだと思うようになりました。

 特に恐ろしいのはそのような「誤解」が浸透する事です。一方的な決め付けや自己満足で相手を責め立てるのはいじめと同じです。それが大人数になれば「迫害」となります。
 私達はそのような迫害を常日頃受け続けて生きていると言う事につい最近気が付きました。そしてそのような振る舞いを受けた時、昔は一つ一つ反省し、委縮していました。発達障害だと診断されてからは、誤解を解こうと努力していましたが、今度は「他責」「開き直り」と言われてしまいました。今は、誤解される事を防ぐ事は出来ないのだから、これは「『誤解される』と言う障害だ」と考えるようになりました。

 トランスジェンダーも発達障害も、「誤解される」と言う点でとても近い障害だと思います。
 あくまでもそういう障害なのだと思うと、周りに期待する事も、誤解されて絶望する事もなくなり、楽に生きることが出来ると気が付きました。