政府婚姻型夫婦になった二人
「私、恋せずに結婚しちゃうんだ……」
恋というものに夢を見ていた分、その悲しみはかんらが生きてきた中で一番といっていいほどだった。
ずるずるとなんとなく重い体を引きずって学校に向かった。席に着くとすぐにうつ伏せになった。
「おっはよー。って、どうしたの? しんどい?」
かんらは声をかけてきたあやめに、事情を説明した。するとあやめはかんらの頭を撫でた。
「かんらは恋愛してみたかったのにね。おばさんにそのこと言ったの?」
かんらは無言で首を横に振った。
「私が恋愛してみたいって考えもしてないかんじ」
「あーあ。じゃあさ、逃げちゃえばいいじゃん」
「逃げられるほどのお金ない……」
「稼ぐんだよ。バイトとかして。今さ、パパ活だってあるじゃん。体売ったりしなくても、大金入るよ」
かんらは想像してみた。自分が見知らぬ男性と食事をして、お金をもらって、生活する様子を。
「でも相手のおっさんがストーカーになったりしたらヤバくない?」
「た、たしかに」
かんらは大きなため息を吐いた。
「恋、してみたかったな……」
かんらがそう呟くと、あやめが再び頭をなでてくれた。
家に帰ると母親に日曜日に用事を入れないように言われた。婚姻制度の相手と会うためだそうだ。かんらはうんとも、ううんとも言わなかった。
そして日曜日はすぐにやってきた。場所は来たこともないフレンチレストランだった。高級そうな服を身にまとった人々が楽しそうに食事をしている中、かんらだけは浮かない表情のままだった。
「初めまして、松岡です」
母親と父親が頭を下げた。かんらも仕方なくお辞儀をする。
「矢田と申します。末永くよろしくおねがいします」
今度は相手の母親、将来の姑と舅、そして結婚相手が頭を垂れた。それぞれ着席して、食事を摂る。かんらにとって初めてのフランス料理だったが、まったく味がしなかった。
かんらはぼーっと結婚相手、矢田喜一郎を見た。黒い体毛に、アンモナイトのようにうずを巻いている角、横に長い瞳孔。喜一郎は滑らかな動作で食事をしていく。それぞれの両親、特に母親同士の会話はゴムボールのように軽快に弾んでいるが、かんらと喜一郎は一言も言葉を交わしていない。
(このおっさん、静かだな。それともご飯に夢中とか?)
そのとき、かんらは喜一郎と目が合った。喜一郎はにこりを微笑みかけてきたが、かんらは軽い会釈で返した。
「そうだわ、このあと新居に二人でいってらっしゃいな」
そう言ったのは将来の姑だった。かんらの母親も「そうしなさいよ」と実に乗り気だ。
「え」
「ですが、かんらさんもいきなり僕と二人だけなんて気まずいでしょうし……」
「なに言ってるんですか、結婚したらずっと一緒なんですから」
そう言ったのはかんらの母親だった。かんらや喜一郎の気持ちを置いていく形で、二人きりで新居を見に行くことになった。
新居は最寄り駅から二十分のところにある、ハイツだった。二階建てで八部屋ある。かんらと喜一郎の部屋は二階の一番奥だった。喜一郎がポケットから鍵をとり出し、鍵穴に差した。
(鍵、そっちにあるのか)
かんらはとっさになにか武器になりそうなものはないか自分のカバンの中を目だけで探した。中には持ち運び用の制汗スプレーがあった。
(いきなり襲ってきたら目にかけてやる)
かんらがそんな風に思っていると知ってか知らずか、喜一郎はドアを開けた。かんらは肩掛けのカバンのひもをぐっと握って、部屋の中に入った。
玄関には備えつけの下駄箱があった。短い廊下を進むとリビングダイニングが広がっていた。
「広っ」
かんらは思わず声を挙げた。すると喜一郎が隣に立った。
「確かに広いですね。政府もいい部屋を用意してくれました」
(ここ、政府が用意したんだ)
「ご祝儀代わりだそうですよ」
まるでかんらの頭の中を覗いたかのように、喜一郎が言った。かんらはなんとなく、喜一郎から距離をとった。
喜一郎は台所を見た。カウンターキッチンでかんらがいる位置から内側は見えないが、おそらくきれいだろう。かんらは別の部屋へのドアを見つけた。ゆっくりドアノブを回す。その部屋は廊下やリビングダイニングと同じようにフローリングで、窓が一つあった。ほこりは積もっていない。
(へえ、結構いいかも。って別に結婚生活がいいってわけじゃなくて、この部屋自体がいいって話であって。一人暮らしにめっちゃいいって話)
かんらは心の中で言い訳をした。そのとき喜一郎が声をかけてきた。
「廊下にももう一部屋ありますけど、どっちにしますか?」
かんらは、さっきは見逃してしまったらしいもう一部屋を見ることにした。廊下側の部屋には、リビング側の部屋より少し大きな窓があった。広さはどちらも同じくらいに思えた。
「僕はどちらでも大丈夫なので、お好きなほうを選んでください」
かんらは喜一郎が当然のように一緒に住むつもりであることに、怒りと恋ができていない悲しみが入り混じった感情を抑えきれなかった。
「私は、あなたと結婚する気なんてないです」
喜一郎は少し驚いたようだった。かんらはもう感情が抑えきれなかった。
「親が勝手に申し込んだんだし、私はまだ結婚する気なんてないし、私は……私は恋だってしてみたかった!」
すべての思いを乱暴に吐き出したかんらは、ようやく我に返った。恐る恐る顔を上げる。喜一郎は微笑んでいた。
「そうだったんですか。
かんらさん、僕はあなたから見ればおじさんでしょうけれど、もしあなたさえよければ……僕と恋をしてみませんか?」
喜一郎はすっと右手を差し出した。かんらよりもずっと大きな手だった。
(この人と……恋を……?)
かんらは考えた。婚姻制度はもう破棄できないだろう。それなら、喜一郎の提案に乗ったほうが精神的なダメージも、後悔も少ないかもしれない。
(それなら、苦しくないほうがいい)
かんらは、喜一郎の手をとった。その体温はかんらより温かかった。