1
/
5

Wantedlyは、300万人が利用する国内最大のビジネスSNSです

This page is intended for users in Japan. Go to the page for users in United States.

自閉症スペクラム障害(ASD)と診断される以前と診断後鬱になり居なくなりたいと思い、そこから徐々に回復してきたこと

初めに、自分は自分の考えていることを理路整然を話すのが苦手なので見づらい文章になるかもしれませんがよろしくお願いします。基本時系列で書いていこうと思います。

自分が何かの障害を持って生きているとはつゆ知らず3年前の32歳まで生きてきました。

診断された後思ったことはそういえば自分は幼少期から何か違和感はありました。

今から思うと家庭環境の問題で自分は長男で下に2人兄弟が2歳差でいまして親も一番上の自分を全力で面倒見れなかったんだと思います。よく我慢もさせられていたと思います。親の期待も大きく習い事に忙殺させられる小学生時代でした。

なので対人関係において相手の気持ちを考えたうえで自分の気持ちをすり合わせて話すことも今でも苦手です。どうしても話し始めると自分の気持ちを話すのを止められなかったりします。

そんな中で自分の居心地のいい居場所はテレビゲームの中でした。つい最近30代半ばまで没頭していました。今は全然ゲームには興味が持てないのは後で書きます。

話を戻すとそのような中、中学3年くらいまでは日々ストレスの中学校も行っていたのですがそのころくらいから欠席しがちになっていきました。やりたくないことをやるというストレスがもう14歳ころに満杯になっていたんだと思います。

そのような中でも18歳で現役で隣の県の国公立大学に入るまでは何かいつも足かせがある中でもよく頑張ったと自分で自分に本当に褒めてあげたいです。

ただそこから俗にいう発達障害者の生活力の低さが目立つようになりました。

いきなりの1人暮らしと初めての場所、人間関係、決められたレールがなく自分で授業を取り自己責任という名のハードルが高校生から大学生だと全然違うと思いました。

1年目の前期から欠席しがちで高校までのようにそれで簡単に単位を取れるわけじゃなく全然必要取得単位に届かなったです。

1年経った2年生の春に親に正直に相談して休学届を出しました。

そこから実家に戻り高校時代の友人達と遊ぶようになり心の空白を埋めていました。

ただその友人達は普通に大学に通っているのに自分は何をしているんだろうとpcゲームをやっている間心のどこかにずっと引っかかっていてもどかしかったです。休学の最大期間の2年も過ぎようとしていた21歳の春に退学届けを出しました。

なぜかというとアメリカの大学に入学するためでした。いきなり話が飛んでいると思うので説明すると、実家はアメリカの大学生の留学のためのホームステイ先に登録をしていて毎年のようにアメリカの大学生が居ました。

話を聞いていておもしろいなと思ったのはアメリカの大学では入学試験の段階で学部など決めなくてよく入ってから取得した授業によって卒業学部が決まるというものでした。

それまで何をしたいのか何を学びたいのかわからなった自分にはすごくそれが魅力で、何もしてない日々も焦りもありますし、何より子供のころから何かに縛られているような感覚があったのでアメリカという外国にすごくあこがれていたのもありました。

親にお願いして21歳でもう一度大学に再入学しました。

結論から先にいうと25歳で無事卒業できました。こんな自分でも卒業できたのは宿題やテストをよく手伝ってくれた友人、そして現在の妻のその当時の彼女にも助けてもらったのはありますがやっぱり環境がすごく自分には居心地がよかったです。

ただいざ卒業するときにも正直特にしたいこととか見つかったわけではありませんでした。

今から思うと学生時代にもっと行動していろんな会社とか見学とかすればよかったと思います。

ただ毎日の宿題、好きなゲームをしていたらなんとかなるだろうと若者ゆえの甘えがあったんだろうと思います。

そして25歳なのですが現実から逃げるように拓殖大学院に入ることにしました。建前はアメリカで勉強した安全保障の分野をさらに学ぶということですが本音はそうではありませんでした。

自分自身に言い訳をするためでした。そして現在の妻にも東京にきてもらって同棲することになりました。

結論から言うと本当に恥ずかしくて情けないのですが2年になる前に辞めました。理由はまだその時は障害のことも分からなったのですが今から思うと分かることは何点かあります。

使命感のように学びたいと正直思ってなかったということ。

アルバイトで生計を立ててギリギリでがんばって未来の自分に期待している妻からのプレッシャー

そのような気持ちで毎日電車の時間に追われている生活などなど、それらをすべて自分で処理できなくなっていました。

その時26歳でそれまでは自分にも周りにも言い訳をしてこれたのですが26歳で本気で焦り始めました。

でも何が本当に原因があるとかわからなかったのでそれに対して本気で向き合うことができなったのです。

妻には生活も苦しいからアルバイトくらいしろとよくケンカになっていました。

18歳の大学1年生のときやっていた塾講師を26歳でやり始めました。

ただ2人ともアルバイトでも東京でやっていけないので妻が正社員の仕事を始めました。

そんな中気づけば自分は28歳になっていました。心のどこかで何かきっかけが欲しかったのもありました。その年の夏に妻の実家に行ったときこんな自分でも妻の父親に結婚したら?と言われました。

僕はこんな自分でもいいのだろうか思っていたのですが妻の親にそう言ってもらえるなら是非ということで結婚することにしました。と同時に本当に何かアルバイトではない仕事を探さないと、とも思いました。

妻はもうその時10年弱一緒にいたので自分のことも分かっています。自分が1人で何かできそうではないから2人一緒に雇ってもらえるところを探しました。それが前職の株式会社旅籠屋です。

当時全国に45店舗くらいある夫婦2人ですべて運営する小さな素泊まりのホテルです。

今でも社長されている創業者の甲斐社長に面接のときに雇うのは正直反対だと言われました。

今ならわかるのですが若い夫婦がする仕事ではないとのことでした。ただ当時生活が苦しかったのでそれを汲み取っていただいての採用だったと思います。

28歳から32歳まで旅籠屋でいろんな経験をさせてもらいながら生活に何不自由ない生活を送らせていただきました。

ただどうして32歳で辞めることになったかというと妻に妊娠が分かったからでした。

旅籠屋では基本子供が独り立ちした中年以降の夫婦が主な支配人でした。ほぼ24時間支配人として生きるには子供がいる中ではできない仕事でした。

妻と相談した結果、もちろん産むことにしました。妻の実家の近くにアパートを借りて里帰り出産という形をとることにしました。500キロくらい離れているので就活もできないまま退職と引っ越しという形になりました。

引っ越しが終わってから1人で就活するのですがやっぱりうまくいきません。自分がなにをやりたいのか本当にわからなくて、そして自分に嘘がつけないのです。やりたいことではない仕事を1人でするということがどうしてもできそうにありませんでした。

なので日に日にお腹が大きくなる妻とケンカが絶えませんでした。なので面接にいった1つの会社で自分は嘘をつきいつからでも働けますと安易にいったところ内定もらえました。もういろいろと疲れていたんだろうと思います。

そんな中、妻は子供無事出産しました。そして自分は内定を出していただいたところを1日で辞めてしまいました。その日の夜に社長様にそのように伝えている時に幼稚園以来くらいでしょうか?それまで泣くことを弱い人間だと思い込まされていた自分が初めて泣いていました。

上手くいかないことに対するいら立ち、妻と子供に対して申し訳ない気持ち、何より自分自身が情けない気持ちでいっぱいでした。

妻に辞めたことを伝えたところ妻も泣いていました。妻は鬱病になっていました。産後鬱を診断されていましたが子供よりも根本的に夫と自身が上手くいかないことに疲れていたんだろうと思います。

児童相談所に相談行ったところその日の内に乳児院に連れていかれました。生後2か月の子供が相談員の方に乳児院に連れていかれるとき自分と妻は涙が止まりませんでした。

なぜこれほど苦労しているのに悲しい結末しかないのかわかりませんでした。

妻は離婚とは言いませんでした。ただ妻の実家で休んでから乳児院から子供を戻すことしか考えられないということで自分は自分の実家に帰りました。僕の実家で仕事が見つかったら子供と一緒にそっちに行くとは言ってました。

そして僕はすぐ仕事を見つけたのですがそこも1日で辞めてしまいました。その日の昼ごろに、ここもやっぱり無理だなと思ったのと同時に何かの病気なのかなと思いました。というより何かの障害か何かであって欲しかったです。辞めることを伝えるのと同時にそれまで自分には関係ないだろうと思っていた心療内科の予約を初めて取りました。

初診でいろいろ聞かれておそらく高機能自閉症と思われると言われました。正直意味が分からなかったです。自閉症?言葉だけ聞いたことあるけど自分が?高機能?と思いました。

詳しい検査をしないと分からないと言われたので翌月に正式なテスト weis-3というのを受けることになりました。そこでタイトルの自閉症スペクラム障害と診断されました。何かほっとしたのと同時に今までの違和感が少し和らぐ感じがしました。

帰ってネットでいろいろと調べていると当てはまっているなと思ったのが7割くらいでした。

一日で仕事辞めてしまうこと、それ自体傍からみればだらしない人、甘えている人のように見えるのは分かるのですが自分が思うにそうではなくて、むしろ逆なのです。仕事などに対して義務感や責任感を人一倍感じているので勝手に自分で自分を追い詰めて耐えれないのです。

興味がないことに対して責任感や義務感をこの先何年も何十年も想像してしまい耐えられないのです。

調べている最中自分はASDもあるけれどADHDもかなり入っているなと思いました。

何かスイッチが入ったらどうしてもそれに執着してしまうところがあるのです。

これらを考えた時、自分はそれまで興味がないことを続けれなかった理由がわかりました。

と同時にそれまで妻や親、友人、仕事でお世話になった人に本当に申し訳ない気持ちになりました。

また妻に落胆されるんだろうなと思って伝えたところ予想外にホッとしたと言われました。

妻は夫である自分ではなく自分が間違っているのかなと自分を責めることが多かったらしく、そういう違和感もこれでいろいろ辻褄が合うと思ったみたいでした。

それで夫である自分は仕事はしてないにも関わらず妻は子供を連れて自分の実家に来てくれました。

子供を保育園に入れるために妻自身が働くと言いました。夫である自分は病気のこともあるし休んでいいと言ってくれました。何かものすごく重たいものが軽くなった気がしました。

妻は優秀です。すぐ仕事を見つけ子供を保育園に入れる生活になりました。

ただ自分はというと障害を持っていると分かって過去の事は辻褄が合ってきたけど現在の生活が上向く訳ではありませんでした。

何か自分に合っているものはなんだろうと深く考えるようになりました。ただ考えれば考えるほど自分は何のスキルもなく30台中盤になってしまって生きている価値がないように考えてしまいがちになりました。

そのような中2年ほど経った去年ずっと自分の実家に住まわせてもらうのも悪いので公営団地に申し込んで引っ越しました。妻と子供は順調だったのですが自分は後からわかることなのですが鬱だったのです。

毎日妻は仕事子供は保育園に行ってるのに自分は暗い団地の部屋の中何もすることなく過ごしていました。昔はそういった心の隙間をpcゲームで埋めれていたのがもうゲームをすることが時間の無駄だと思うようになり全く興味がなくなりました。

それで1年前くらいから半年前くらいにかけて3回ほど急に居なくなりたいと思い自殺をしようとしました。結果できませんでした。居なくなりたいと本気で思っても死ぬのがどうしても怖かったのです。

深夜に警察に行って相談もしました。そのような時、妻に心療内科に連れていかれ鬱と診断されました。

それから抗うつ剤を処方してもらい半年たちました。少しずつ元気になれてるのか何か自分のペースでできる仕事があるならやりたいと思えるようになりました。

そこでこのサイトにも登録しようとして自分の過去のことも振り返るためにここに書いてみました。

以上で終わりです。読んでいただきありがとうございました。