「あるべき論」の問題は、本当にそこなのか ― 役割と機能の視点から考える
最近読んだ書籍で「こうあるべき」というのは社会的ノイズで...のような記述がありました。
確かに「こうあるべき」という圧力みたいなのによって思考が縛られたり、本来(何が本来なのかは難しいですが)あったはずのピュアな意志が抑制されるなどの意味で、ノイズであるというのは一定の理解をしていました。
ただどこかで、「こうあるべき」も必要だよな、と思うこともあり、整理するに至りました。
なぜ「こうあるべき」という、ある種の理想を我々は押し付けようとするのでしょうか。
自分のネガティブエピソードを取り上げてしまい恥ずかしいのですが、
「職場でタスクがない状態」
これを例に挙げてみます。
当時の私は、上司との1on1にて自分に置かれた状況について定期的に相談し、その度に現在調整中であることや、相談や依頼したい旨を伝えられ、期待して待つものの現状が変わらず、失望して再び1on1をする流れを繰り返していました。
最初は、「上司なんだからこの状況を打開してほしい」という他責思考でいました。
自分に何かを期待して採用されたのだろうし、無いなら無いで相談して一緒に見つけていったっていいんだから、腹を割って相談してほしい、という思いでした。
期待と失望という感情のジェットコースターという他責思考が、さらに私を苦しめることになり、ある時、この他責思考を止めようと思いました。
正確には、期待することを止めたのです。
自分が期待することを出来ない相手に押し付けたとしても何も前に進まないと思い、相手に「こうあるべき」という理想の姿を押し付けることは意味がないと思うようになったのです。
そう切り替えられてから、ある種の自責思考として、自分にできる範囲内で発信するなど前向きに行動できるようになりました。
だから、上述したように「こうあるべき」に対する社会的ノイズという側面に一定の理解がありました。
しかし、だからといって、「こうあるべき」というある種の期待を完全に否定して良いのか、考え直してみました。
例えば、橋を支える柱が本来の強度を持っていなければ橋は崩れます。
歯車が噛み合わなければ機械は動きません。
つまり、モノには「こう機能してほしい」という期待値があります。
人も同じで、組織やチームの中では、それぞれにある種の役割や期待値が存在します。
もちろん、それが過剰になると同調圧力や抑圧になります。
ただ一方で、役割や期待値そのものを完全に否定してしまうと、システムとして機能しなくなる場面もあるのではないか、と思ったのです。
私が今思うのは、
ヒトの役割やモノの機能に対する「こうあるべき」は、存在してよいのではないか、ということです。
そして、「こうあるべき」という役割に対して、その方がその役割を自然にイメージしたり振る舞えない場合に、自身と周囲に悲しいことが起きるのではないか、と思っています。
その意味で、システムにおいて最も重要なのは、役割と機能の設計なのではないでしょうか。
役職という、一見職務内容がわかりやすいラベルにおいても、
名前だけがイメージとして先行されて、ふんわり曖昧な状態になってしまうと、
- 責任範囲が曖昧
- 評価軸が公平でない
- 上司(上層部)は何を期待しているのかわからない
- 本人も何をすればよいのかわからない
という相互理解の齟齬が生じるのではないでしょうか。
だからといって、役割や機能の設計に曖昧さが残らないわけではありません。
その場合は、都度コミュニケーションによってチューニングし、軌道修正することで双方の意思疎通を図ることが重要だと思います。
紹介したエピソードの当時は、他責思考と自責思考の問題だと思っていました。
でも今振り返ると、それだけではなかった気がしています。
組織として私に何を期待し、私はどの役割を担うのか。
その設計や対話が不十分なまま、「主体性」だけが求められていたのかもしれません。
「こうあるべき」を完全に否定することは簡単です。
でも、人や組織が機能するためには、役割や期待値の設計は必要なのだと思います。
だから本当に向き合うべきなのは、
「あるべき論をなくすこと」ではなく、
- どんな目的のために
- どんな役割や機能が必要なのか
- 誰がそれを設計するのか
- 状況に応じてどう対話し更新していくのか
なのかもしれません。