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フラーレンウィスカーとウマシアシカビヒコジノカミ(メルマガ編集後記 過去記事1)

2015年6月3日付 物質・材料研究機構からのプレスリリース『超分子カーボン材料のパターン化による細胞の分化制御に成功 — 再生医療の実現にむけて、足場材料の大面積化を可能にする技術の開発 —』を読んで。

細胞が増える様子を思い浮かべる時、わたしは古事記の一説を思い出します。

“国わかく浮かべる脂のごとくして、くらげなすただよへる時、アシカビのごとく萌えあがるものによりて成れる神の名は、ウマシアシカビヒコジノカミ。”『古事記注釈〈第1巻〉』 西郷 信綱 著 ちくま学芸文庫 より)

天地が別れる前の混沌を描写したもので、水に浮かんだ脂がクラゲのように漂っているところに、尖ったカビのようなものが次々に増殖していくようすが、流れるような文体で描かれています。ここでは脂やクラゲやカビのような形のはっきりしないもの、「秩序」のつかみにくいものが混沌の象徴として描かれています。

混沌とした様子とはどういうものか、混沌の「混沌らしさ」はどこにあるのかと考えてみると、わたしには2種類の混沌があるように思えます。

一つは真の無秩序で、この場合はなんの法則性もありません。もう一つは秩序に則っているにもかかわらず複雑すぎて理解を超えてしまい認識不可能になる混沌です。

前者は説明の必要もないと思いますが、後者の場合、世界は秩序に満ち溢れているのに気がつかないだけなのだということになります。

「ウマシアシカビヒコジノカミ」はアシカビのごとく萌えあがるものによって、その存在が明らかになる秩序に他なりません。古事記に登場する神々は「やほよろづの神」であり「やほよろずの秩序」といえるでしょう。自然界は「やほよろずの秩序」が絡み合った後者ではないかと思っています。

炭素原子が柱状に結晶した「フラーレンウィスカー」が足場として繊維状の筋細胞を誘導できることはまさに秩序が萌え上がるものを導いているわけで「ウマシアシカビヒコジノカミ」的です。

“生物は環境から「秩序」をひき出すことにより維持されている…中略…生物が自分の身体を常に一定のかなり高い水準の秩序状態に維持している仕掛けの本質は、実はその環境から秩序というものを絶えず吸い取ることにあります。”『生命とは何か 物理的に見た生細胞』 シュレディンガー 著 岡 小天・鎮目恭夫 訳 岩波文庫 より)

フラーレンウィスカーが細胞分化を導くこの現象はシュレディンガーのこの主張を思い起こさせます。生物は「やほよろづの秩序」から自分に合った秩序を選んで吸い取るのでしょうか?それとも「やほよろづの秩序」が生物を誘導しているのでしょうか?はたまた、両方の条件が揃った点こそが生命の萌えあがる離散的な特異点なのでしょうか?そんなことを考えていたからか、誰かがシャーレの上で笑って「おいでおいで」している白昼夢を見ました。彼はきっと例の神様だったのだと思います。

(2015年6月のメールマガジンの記事を改稿)