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喉元すぎても熱さを忘れず ~被災した経営者たち 第二弾~

今回は、街や土地の復興に深く携わる「土地家屋調査士」の澤田さんにお話を伺いました。あまり聞き慣れないかもしれませんが、土地家屋調査士とは、不動産の表示に関する登記の専門家です。震災復興時には、建設会社や行政からの依頼を受けて土地や建物の所在・形状・利用状況などを調査していました。この調査が行われないと、家屋が崩壊した土地に新しく建物を建てることができないそうです。いわき市で育ち、いわき市の復興を影で支えた澤田さんの視点から見た、街の復興についてインタビューしております。

家族、知人、役所、取引先といった人々のつながり。この全てが復興へと繋がる大事な要素でした。街と人を冷静に見つめる視点を通して、今一度自分のコミュニケーションを見直すきっかけになれば幸いです。

東日本大震災時の澤田さんへの影響

地震が襲ってきたときはどのような状況でしたか?

震災の時は事務所にいたんですよね。ものすごい揺れが来て、おさまったかなと思う頃、まあ余震すごかったんですけど、家族の元に走ってアパートに戻って、誰もいなくて、家族が近くの小学校に避難してるだろうことがわかったので一度事務所に戻りました。津波が来るまでの40分の出来事でした。

そしたら「津波くるぞー」って大きな声が聞こえて、すぐ近くの4,5階建ての病院にかけこみました。海からの直接的なものではなかったんですが、近くの川が決壊して車両も流されるほどでした。流された車の上に人が乗っていて「あそこに避難しろ!」と誰かが叫んでいましたね。

事務所の建物は無事だったんですか?

4月に続く余震で事務所にガタが来て土地を移ることになったので、新しく立て直すことにしました。福島県から上限1000万円で総工費の3分の1が出る助成金がでたので、それを使って事務所を立て直しました。工務店、建設業に頼むと高くなってしまうので、基礎工事とかは直接頼んで、元請けがいない状態で個別発注にして安くしました。多分100万くらい違うんじゃないかと思います。壁ぬったり、床張ったりは自分でやりました。

東日本大震災時の澤田さんの仕事(土地家屋調査士)への影響

震災後はどのようにビジネスを立て直したのですか?

最初の1,2ヶ月はどうなるかと思っていましたが、実は仕事はすぐ来ました。行政からの依頼と、一般の依頼と、2つあります。

行政からはどういう依頼が来るんですか?

津波地区の調査です。簡単に言うと、建物が津波によって無くなったかどうかを確認する作業です。なんでこんな作業が必要かというと、津波地区で新しく再建するためには「無くなった」ことを記録しなくてはいけないからです。そうすることで初めて、その土地に新しく建てることができる。こういった所で、復興支援に繋がるようなお仕事をさせて頂きました。

またこれと合わせて、法務局が使っている地図の更新も行いました。明治時代の地図を未だに使っている地区もあったので、これは大変でした。

行政からはそういう仕事依頼があるんですね。一般の依頼はどのようなものだったんですか?

元々付き合いのある住宅メーカー、銀行、司法書士、地主といった方からの依頼です。建物を作る際には土地調査が必要になるのですが、震災後その需要が増加しまして、実は来年いっぱいまでは震災前の5割増しで忙しい状況です。新規のお客様もいらっしゃいますが、基本的には既知のパートナーからの仕事が殆どになります。

震災を経て改めて、仕事のモチベーションはどこにありますか?

兄と2人で事務所をやってるので、2世帯分を賄わなければなりません。また自分の息子も高校卒業までは面倒を見ないといけないと思っています。子供が巣立ってくれれば好きなことができます(笑)。

個人事業主なので、サラリーマンと違って、好きなようにできるのがいいところだと思います。サラリーマンは仲間いっぱいいてフォローしてくれる人もいるし、休日も休めるし、住宅ローン組めるし羨ましいな、とは思います(笑)。だからこそ、俺は自由なんだ、というモチベーションでやっています。身一つで仕事できるものに関しても自由というのが一番ですね。

いわき市の変化

震災を経て、いわき市はどう変わりましたか?

いわき市では原発事故、これが一番ですね。震災前には36万人くらいの人口だったのが、原発事故のあった双葉市とかから避難して2万人増えてるんですよね。山間部でなくて都市部に2万人増えてる。こうなると、原発事故で帰れない人たちはいわきに家を作るしか無いんですよね。

人口増加に伴って飲食店も増えていますが、衣食住以外の生活に必須ではないものは潰れていくんじゃないか、という不安はありましたね。知り合いの花屋も、今はもう立ち直ってますが、当時は「もうだめだ」と嘆いていました。あとは補助金を使ってバーを始めた人もいます。そこで店員を雇っているので、地域雇用を生み出してるんですよね。

澤田さんから見て、復興は終わったと思いますか?

まだ多少インフラ残っている部分はありますが、目に見えるところでは復興したと思っています。市営住宅を壊して、とかは今後もあると思うが、震災絡みの修復はほぼ終わっているのでは。どちらかというと、人の部分がまだ手付かずだと思います。

人の部分が手付かずとはどういうことですか?

地元民と避難者が完全に別のコミュニティになっているんです。色々危惧してのことだとは思いますが、例えば学校を別に作っていたりとか。7年もたっているのに地元民と避難者で交流がないのは凄く変な感じがしますね。勿論、私が知らないだけで交流もあるんだと思います。

スピード感をもって復興すべき

市民が早く動くにはどうすればいいでしょうか。

行政が決めたシステムに沿ってやるしかないので、最初の段階で、外部の識者に意見をきいて、こうやったほうが良いですよ、と言ってくれる人がいるといいですね。家の損壊など、ダメだったところを再開するのもスピードが速いと良いです。岩手ではまだ進んでない所もあります。とにかくスピードが大事。遅いのは絶対だめです。お金がないことで建物を壊すことも立てることも二の足を踏んだりして、国としても復興が進まず困ることになります。

補助金も行政からの告知があったんですか?

正直、情報格差は凄くあると思います。行政が無料で行っている復興支援を知らないという人も多かったです。私は職業柄、アンテナを張り巡らせてたからわかりましたが、お年寄りや、サラリーマンですらわからない人たちがいました。補助金で200万おりるのに知らずに家を建ててしまったり。なので、私のお客様には積極的に情報提供をしていました。小さい役場よりは大きい役所で聞いたほうが良いと思います。

補助金ひとつとっても大変そうですね。

補助金申請みたいな細かい作業を、よく仕事しながらやったなと思いますよ。当時はどこの業者も忙しくて順番待ちだったので、だったら自分でやったほうが良いだろうってことで、ペンキや機材移動など自分たちでやったんです。平成25年だからもう5年もたつんですね。今後事務所を再建するとか考えてなくもないが、忙しいのが落ち着いてからですかね。

喉元過ぎても熱さを忘れないように

最後に、震災を振り返ってメッセージはありますか?

「喉元過ぎても熱さを忘れないように」ですかね。震災復興が終わったとしても、絶対その時の事を思い出してほしい。

それは特にどういった部分ですか?

それはやっぱ人とのつながりですよね。水がなくて困ってる人に、当時は誰にでも水をあげられました。あの時一生懸命助けあっていたときの気持ちを忘れず仲良くしてほしい、と思います。


澤田さんと事務所の前にて


インタビューを終えて感じたこと

「土地家屋調査士」が復興の起点となる役割を担っていること、復興にも情報格差があるということを初めて知りました。また、澤田さんが過去を振り返り「大変だった」と一言で済ましていたのが大変印象的で、果たしてそんな一言におさまることだったのだろうかと、インタビューを記事に起こしながら、考えさせられる体験となりました。

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