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守破離の話。

自分を信じるとはどういうことだろう。そういうことを良く考えます。

自分はまだまだできる、自分はまだまだ若い、自分は可能性だらけなどなど。

数を挙げればキリがないくらい、自分を信じる言葉が浮かびます。でも、疑問もあるわけです。これらの言葉は、本当に自分を信じているのだろうか。

一体、自分を「信じる」とはどういうことでしょう。

信じるという言葉の語源を調べてみると、神様との誓いという意味があるみたい。人が、神様に誓いを立てて、約束を守れなければ罰を受けても構いません。そんな意味があるみたいなんですねぇ。

もし、これが本当だとしたら、信じるって中途半端な気持ちではできないですよね。だって、神様から罰を受けるのでは何をされるかわかりません。罰を受けるくらいだったら信じない方がましかもしれません。

それでも、やっぱり人は何かを信じずにはいられない生き物なのかもしれません。僕なんて、いつも自分を信じたい(というか、信じてます)です。

では、最初の疑問に戻ります。自分を信じるということは、本当に自分を信じているのでしょうか。

もしかしたら、「自分はまだまだできる、自分はまだまだ若い、自分は可能性だらけ」こういう言葉達は、100%命を燃やし切れていない自分に対する言い訳でしかないのかもしれません。自分を信じているという言葉に逃げているのかもしれません。

心のどこかでは、そのことをちゃんと分かっているのに、受け入れたくない自分がいるのだと思います。だって、それを受け入れてしまったら、自分に対する逃げ道がなくなってしまうから。

思うに、このことを受け入れることが、本当に自分を信じることではないでしょうか。

大学の先生に、自分を信じることについて質問しました。

「我が強いことは良いことなのでしょうか。先生も若い頃は我が強かったらしいですが、千利休の守破離に生きたのでしょうか。」

僕自信、誰か(何か)を信じて徹底的に真似ることは、自分が自分でなくなるような気がして怖かったのです。だから、人生の先生にそんな質問をしました。

すると、先生はすぐにこう言ってくれました。

「若い頃から自分流に拘っても悪いことはないのですが、下手すると狭い自分流に拘り過ぎて発展がない。それより理想の大きな目標を置いてそれに至る過程を辿ることの方が大きく成長出来ます。」

「まずは理想のモデルを真似る(守)、次にそれを乗り越える(破)、最後は自分流を確立する(離)。20歳からほぼ10年タームではないかと思います(個人差あり)。孔子の「30にして立ち、40にして惑わず」というのも同様でしょう。」

たくさんの人から尊敬される先生がこう言うわけです。これはもう、迷う余地はありません。

自分を信じるとはどういうことだろう。そういうことを良く考えます。

自分がなくなってしまうことが怖く、誰か(何か)に自分を寄せることを避けていたこの数年間。でも、この恐怖を乗り越えること、この良くわからない怖さの先に、もっと素晴らしい自分がいると信じること。そして、命を使い切れていない現場を受け入れること。

そんな勇気が、自分を本当に信じるということなのかもしれません。

学生を終え、当時から頭をよぎっていたことが、全て現実味を持って捉えざるを得なくなりました。良い意味で、ハードです笑。

人生の道のりは長いのですね。たいち。

そんなことを考えながら入ったサウナは最高でした。

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