1
/
5

ママがママの役割を休めるのが当たり前の社会へ

トップ画像は、僕の妻と息子の写真です。子供を愛おしそうにみる母。ありふれた光景だと思われた方が多いのではないでしょうか。

「お母さんだから子供を愛するのは当たり前」というものから始まり、「お母さんだから◯◯をして当然」という考え方は、日本には強く存在し、それが女性を苦しめているのではないか——。僕は父親になってそう感じました。そのことについて簡潔に気持ちを綴ります。

出産の喜び、妻のメンタル不調


Embed image

息子が生まれたのは2017年6月3日の朝でした。立会い出産で、息子の産声を聞いた時の感動は忘れられません。

ひとつの命を育てるわけですから、育児が容易ではないことは覚悟していました。しかし、現実は想像より遥かに厳しく、妻が産後うつのようになってしまったのです。

異変に初めて気が付いたのは、退院後数週間経った日のこと。妻の目には力がなく、「子どもがかわいくない」「生きていても仕方がない」など妊娠中の明るい妻が別人になったかのような言葉を発するようになりました。

子どもの命を守るプレッシャー、夜中の授乳による睡眠不足、そして良き妻・母であろうと頑張り、疲弊してしまったんです。「疲れた」と書き置きを残して家を出て行ってしまったこともありました。「最悪の場合、自殺や虐待に発展してしまいかねない」。そんな恐怖も感じました。

行政や産院に相談の電話をしましたが、係の人は皆、定型文のようなやりとりの後、心療を扱う医療機関に行けとしか言いませんでした。いくつかの病院を調べて電話をしても「患者がいっぱいなので1か月待ちです」と言われる有様です。正直、「アホか!」と思いました。今助けを求めているのに、1か月も待てるわけがない。

「育児=家庭で母親がやるもの」という固定観念を手放す

僕は在宅勤務にして通勤をなくし、働く時間に融通がきくようにしました。精神が非常に不安定な妻を家に残し、息子と2人だけにするのはリスクが高いと思ったからです。これだけでもだいぶ状況は好転しました。

妻が産後うつのような状態になったことで、「育児=家庭で母親がやるもの」という固定観念を社会が手放さないと、子育てにおける女性の負担は大きいままだと痛感しました。もちろん、親になった以上、子どもの命を守り、育てていく責任はあります。しかし、何でもかんでも背負うことはないはずです。

ちょっと前に、「わたし、おかあさんだから」という歌が母親の自己犠牲を美化しているとして、作者が批判されたことがありましたね。

母親という役割に縛り付けられ、子育てがうまくいかなかったり、子どもに何か障害があったりして苦しい思いをすると、まるで自分の人格を否定されたように感じて、生きている価値がないとすら思ってしまうんです。

親を休んだっていい

今、僕は「子どもを持つか、持たないか」をテーマに母親たちを取材しているのですが、彼女たちが「母親としての役割」に苦しんでいることがわかります。

仕事は辛ければ辞められる。でも親はそうはいきません。一度背負ったら逃げ場がない、休めない、そんな気持ちが親、とりわけ母親を苦しめるんです。

そんな状態を防ぐには、夫の長時間労働を無くして家事と育児に関われるようにしたり、地域で育てるような環境整備も必要です。

母親である前に、ひとりの女性であり、その人個人なのです。子育てを母親や家庭だけでやればいいと突き放すのではなく、地域や社会全体でするという仕組みが必要だと思います。自治体には産後の母親を助けるサービスが存在していますが、使い勝手が悪く、改善点がいくつもあると感じます。

また、僕らも利用している民間のシッターサービス家事代行なども、費用が高額なことなどから利用が一般的になるにはまだ時間がかかりそうです。

それから、母親自身が休む罪悪感を手放すことも重要だと思います。個人、家庭、地域が一丸となり、母親が、「母親の役を休んで自分に戻る時間」を当たり前に選択できる社会にしていきたいです。