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プログラミングをはじめたきっかけ

自分の戦える武器は、それしかなかった。


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中学生の頃、漠然と、ソフトウェアの開発に携わってみたいなぁと、ぼんやり思っていた。

2002年、ブラウン管テレビと瓜二つ、箱のようにずっしりと重いディスプレイの、古ぼけて薄く茶色けた、白くてダサいパーソナルコンピューターを、親が知り合いからもらってきた。

別段と親はそれに興味を示さなかったし、僕も「でっかくて古くてダサい」その箱に、進んで触ろうとはしなかった。

検索なんかしようものなら、小一時間ぐらいはそいつと格闘しなくちゃいけないしね。

古くてでかくて重くてダサい、とにかくイケてないそいつは「その図体で、なんでそんなに仕事ができないんだい?」と罵声を浴びせたくなるほどレスポンスが遅く、一度触ってからそいつに二度触れたいと思うものは、家族の中には誰一人いないようだった。

僕の親はそこまで『IT』というものに興味があったわけではなく、ただ、どこの誰かがお古かなんかであまったパソコンをくれると言ったから、よしタダならそれじゃあもらっておこう、ありがとう、なんてかるい考えでもらってきたんじゃあなかろうか。

ただ、親は何を思ったのだろう。

その半年後ぐらいに、ピカピカの新品。かっこかわいらしい新型パソコンを電気屋で買ってきたのだった。

僕の記憶では、こんなパソコンだった。

・ディスプレイは、図体のでかい箱型のパソコンとは似て非なる薄型のスタイリッシュな出で立ちで、角が丸くて、全体がほんのりとわずかにピンクががっており、付属品に魔法少女ミラクルプリティステッキなるものがあってもなんら違和感なく、500円玉ほどの大きさのボタンが右下についており、電源をいれると緑と白のグラデーションがかかってほんのりと光る、15インチのかわいくてオシャレな仕様であった

・パソコン本体は、パカパカと前面に両開きの蓋がついており、そこにCDやらUSBやらがさせるコネクターを格納、我が家の狭い台所にどすんと居座る、「ホワイトニングをしたんじゃなかろうか」と思うほど妙に白い、そのせいで汚れが目立ちに目立つこれまたダサい冷蔵庫と比較し、パカパカ、パカパカと、これまたバカのように面白がって開け閉めをした自分の姿が記憶が残るほどに、今まで見聞きしたことのないオシャレな蓋、そしてこれまた500円玉より一回り大きいボタンが前面部分のど真ん中の押しやすい位置にあり、ぽちっと押すと緑と白のグラデーションがゆらゆらキラキラと光る、とても可愛らしいパソコンであった

夢中にならないわけがない。

そこから僕は、今までの人生の中で、一番スタイリッシュだと思う物体を前に、パソコンの世界にのめり込んでいった。


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高校生になり、友達のお兄ちゃんの紹介で、僕は入学すぐぐらいにアルバイトをはじめた。

月に4, 5万円ほどお金が入るようになり、このお金をケツポケットの財布に詰め込み、自転車で練馬区の自宅から秋葉原まで通って、PCパーツを漁るようになる。

はじめて自作PCを組んだのが、高1の夏。

シャトルという会社が出している、本体が真四角の箱型のベアボーンキット一式と、CPUのペンティアムDをセットで買い、本体以外のパーツは格安のNTディスプレイ、マウスキーボードはセットで1000円のちゃっちいもので、なんとか予算内に収めた。

ワクワクしながら友達と一緒に組み立てたパソコン。今でも思い出すと口角が上がる。

でも、当時はただただパソコンが好きなだけであって、やることは適当にネットで検索するか(それもPCパーツのことばかり調べていた)、友達と一緒にはじめたネットゲームをやるか、本当にそれぐらいしかやることがなかった。

それでも、情報の先生が進めてくれた「パソコン検定」なるものを受けたりなんかして、パソコン全体の知識をぼんやりとつけていった。このころ、「プログラミング」というものすらよくわかってなかったし、将来自分がプログラミングで仕事をするということも、考えてなかった。

パソコンの知識がつくことが嬉しくて、休み時間には情報教室に足を運び、ネットで得た知識を先生と共有するのが当時の僕にとって一番楽しい時間だった。


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高校3年生にあがり、僕はクラスで孤立してしまった。

クラス替えで友達がいなくなってしまって、誰ともしゃべらない日々が1週間、2週間、1ヶ月...と続いた。

学校が終われば、さっさと家に帰って引きこもり、パソコンの電源をつけ、ギルドマスターになっていたネットゲームに、ほとんどの時間を費やした。

気がついたら、僕は学校にいかなくなっていた。

1日15時間パソコンに向かい、ひたすらギルドメンバーと狩りに出かけた。もうキーボードを見なくても、日常会話ができるほどに、キーボードを打つスピードが日に日に速くなっていった。

高3の夏、学校にも行かず、ネットゲーム三昧。

高3の秋、だんだんとネットゲーム漬けの日々に飽きがきたのか、将来が不安になったのか、親に涙目で訴えられたからなのか、そこんところはぼんやりして思い出せないのだが、近所の塾に通うことになる。

ぼんやりと「パソコンの専門学校にいければいいかな」と思っていたのだが、親がそれを反対した。

「せめて大学に行ってほしい」

僕の両親はどちらも高卒で、長男である僕には大学に行ってほしいと前々から思っていたらしい。どこでもいいから大学には行ってほしい、とぼやかれた。

どこでどのスイッチが入ったのか分からないが、パソコンをつけるのを一切辞めた。受験勉強をはじめた。今からはじめて間に合うのかは、正直怪しい。

相変わらず学校にはいかなかったし、塾は最初の半月ぐらいでいかなくなり、やっぱり家で引きこもって勉強した。僕は家にいるのが、純粋に好きなのかもしれない。

そうして、キーボードを触る時間が、そのままシャーペンを触る時間へと変わっていった。


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2009年2月14日、分厚い封筒が自宅に届いた。

その封筒は、僕の志望する大学から送られたもので、母親は半信半疑な顔をしながらも、笑顔で僕にそれを渡してくれた。

合格通知だった。

晴れて情報系の大学生になることが決まり、ギリギリ単位が足りて卒業できた高校の卒業式に、半年ぶりの登校。

家に引きこもって、周りと向き合うことを諦めていた自分だったが、大学進学が決まってすこしだけ視野が広くなっていた。何度も何度も家に電話をかけてくれた担任の先生には深く頭を下げたのを覚えている。

ただ、大学に入ってから、僕はまだプログラミングをするに至らなかった。自分はもしかしたらクズなのかもしれない。


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大学に入り、自分の夢見ていた情報を専攻することができた。

ただ、僕の思っていた「理想の情報」とはだいぶギャップがあり、C言語だとかJavaだとか、何が面白くてそんなことするんだろう、という退屈な授業ばかりだった。

ギリギリ単位がとれるぐらいには授業を聞いてはいたのだが、それ以外は居眠りしていた。

というのも、ほぼ毎日、朝まで麻雀漬けの日々を送っていたからだ。

C言語で計算するよりも、麻雀で符計算をしていた方が、当時はずっと楽しかった。

宅打ちから、だんだんと雀荘に入り浸るようになり、気がついたらタバコも吸いはじめていた。

もっと強い人と打ちたい一心で、知らない人ともどんどん打つようになった。雀荘の店員さんともプライベートで別の雀荘で打つなんてこともあったし、ときにはヤクザっぽい人とも打つこともあった(ヤクザだったのかどうかは今でも分からないが......)。

大学の友人からも進級を心配されていたが、とにかくそんなことより、麻雀がやりたい、もっと麻雀がやりたいの一心で、気がついたら大学の掲示板に「進級が危うい人一覧」なる張り紙の常連になっていた。

高校のときもそうだったが、僕は「やりたいことがあると、それが頭から離れない人間」らしい。ネットゲームもそうだったし、麻雀のときもそうだ。

今でこそ、それほど麻雀をやることはなくなったが、酷いときは2週間ぐらい空き時間なしで雀荘をハシゴして打ちまくる、なんてこともあった。

ギリギリ進級できる単位を取得し、なんとかドロップアウトしないように、綱渡り状態で大学に通った。

プログラミングもできないし、将来は「麻雀接待ができるSEなんかになろう」。将来のことは、そのぐらいにしか思っていなかった。


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大学3年生になって、研究室に配属された。僕にとっては第1の転機だったのかもしれない。

研究室の先生の、研究に対する目はかなり厳しいもので、自分の研究発表に少しでもアラがあると、すぐさまビシっと指摘、何度も何度も書き直しをさせられた。

僕は当時先生のすすめで、人工無脳について研究していた。人工無脳とおしゃべりしながら散歩するアプリ。

Javaを使ってAndroidアプリとして実装して、試行錯誤でなんとか先生からOKがもらえた。

なんとなくだったが、「大学院に進んで、もうすこしプログラミングのことを学んでもいいんじゃないか。スキルとしてあった方がないよりはいいと思うし」なんて考えていて、なんとなしにそのまま大学院に進んだ。

大学院では、サーバーサイドをRubyで実装して、会話のログなんかもとれるように改良した。

研究も良い感じで進んでいたし、苦手意識のあったプログラミングもなんとかできるようになってきた。

そして、就職活動の時期になった。


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結果からいうと、就活はボロクソだった。

プログラミングに対するコンプレックスと、もっとやれるんじゃないかという熱意と、面接でボロクソに言われた「技術の無いやつはいらない」という胸に突き刺さる言葉。

今までネットゲームや麻雀に対するのめり込みの姿勢が、一気にプログラミングに注がれた。

プログラミングの参考書を買いあさり、必死に読み込んだ。

本当に初歩の初歩であろう本も手当たり次第読んだし、ネットで評判のよさそうな本も片っ端から買いに買った。

「ITに対する、渇望にも似た意欲」が爆発し、そして今までにない不安にも襲われた。

はたして僕は、IT業界で働くことができるのか。

プログラミングで飯が食えるのか。

お金がもらえるのか。

そうなるには、どうすればいいのか。

何ができて、何を知らないといけないのか......

今、僕の手の中にある武器は、ネットゲームで得た知識でもなく、麻雀で得た知識でもなく、「プログラミングで社会に立ち向かっていくという意思そのもの」だけだった。

プログラミングの勉強をしながら、1社、また1社、落ちていった。

僕は疲れ切っていた。

エレファントカシマシの「孤独な旅人」を、くたびれたリクルートスーツを身にまといながら、虚ろ虚ろ聴き、涙が出そうになるのをこらえて、知りもしない企業の面接に、また向かう。

そんな疲弊した状況の中。60社目。IT派遣会社に内定がきまった。

正直、SESの業界はどこもブラックだと、事前知識でわかっていた。

だけど、もう自分がプログラミングで戦える場所は、ブラックでもなんでもいいから「社会に出て自分の実力を試すための場所」がなければダメだ、ということもわかっていた。

僕はSESの会社に入社することにした。

プログラマーとしての、「プログラミングを武器として、社会で戦っていくため」の、最初の一歩。

ちなみに、紆余曲折あり、この会社は後に1年立たず辞めることになる。

ただ、今現在、就活時期に熱を込めてプログラミングを学んでいたとき以上に、プログラミングに対する熱意を燃やして、自分なりに社会と向き合って、戦っている。

今はもう、プログラミングを武器にして戦うしか、僕には道はない。これからもそうするつもりだ。

この武器は一生磨き続け、ずっと僕の相棒として、戦い続けていく。

この続きは、以前書いた僕のブログで公開しています。先に本内容をブログに書いてもよかったのですが、Wantedlyに「プログラミングをはじめたきっかけ」というテーマで出ていたので、せっかくだからと、パソコンにはじめて触ったあの日を思い出して書き起こしてみました。

[vdeepの記事(続きの内容)](http://vdeep.net/quit-first-company)

最後までお読み頂きありがとうございました。

okutani

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