【本田教之】走るはずのない影が背中を押した日
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朝、会社へ向かう道の途中で、なぜか地面に自分の影が二つあることに気づいた。ひとつは当然いつもの影。もうひとつは、すこし遅れて揺れながらついてくる影で、形が妙に丸くて落ち着かない。最初は寝不足のせいだと思っていたけれど、信号待ちの間じっと見つめても消えない。むしろこちらの動きを真似しようとしているようにすら見える。走ったら追ってくるのかと思い、ちょっとだけ早足にしてみると、丸い影は遅れながらもついてくる。その姿が妙に励まされるような、妙に見張られているような、不思議な感覚を生んだ。
会社に着く頃には影は一つに戻っていた。それで終わりかと思いきや、昼過ぎに外に出ると、また丸い影が出ていた。今度は歩くたびにふわっと跳ねるように形を変える。気のせいかもしれないけれど、まるで「もっと肩の力を抜けよ」と言っているように思えてきてしまう。このところずっと忙しさに追われて、自分でも気づかないほど張り詰めていたのかもしれない。
その影を見ながら歩いていると、ふと今の仕事で感じている違和感が浮かび上がってきた。自分は本当にこのペースで走り続けたいのか。やるべきことと、やりたいと思っていることの境目が曖昧になったまま、ただ前へ進もうとする毎日。その後ろで、気づかないうちにもうひとつの自分が丸く小さく縮こまっていたのかもしれない。そう思うと、あの丸い影は、その縮こまっていた自分がようやく表に出てきた姿にも見えた。
午後の帰り道、影と並んで歩きながら、久しぶりに深く息を吸った。風の温度や街の匂いが、自分の中の感覚を呼び起こすように感じられた。丸い影は少しずつ自分の影と重なり合い、夕方には完全に一つになった。それを見たとき、心のどこかで、ようやく自分の速度を自分で選べるようになった気がした。誰かに急かされるのではなく、無理に自分を大きく見せるのでもなく、自分の影が自分の形でいることを大切にすればいいのだと、丸い影が教えてくれたように思った。
翌日から、仕事の進め方をほんの少し変えてみた。一気に走り抜けるのではなく、立ち止まる瞬間を意識的に挟むようにした。すると、不思議なことに焦りが減り、なぜか発想が前より柔らかくなったようにも感じる。丸い影はもう現れなくなったけれど、背中を押してくれた感覚だけはしっかり残っている。影に形があるように、迷いにも形があって、それを無視すればするほど歪んでいく。けれど向き合えばいつか自分の影と同じ輪郭になり、進む方向を照らしてくれるのかもしれない。