ハワイには十数回訪れているのに、実は一度も足を運んでいなかった場所があります。
それが「パールハーバー(真珠湾)」でした。2025年11月、8年ぶりのハワイ滞在で、ついに初めて訪問してきました。
真珠湾とは。「ビジターセンター」でまず知る
真珠湾はワイキキから車で30分ほどの入り江で、アメリカ海軍太平洋艦隊司令部が置かれる重要な軍事拠点です。名前の由来は、かつて真珠貝が多く採れたことにありますが、1900年代以降、泥の流入などで姿を消してしまったのだそうです。
入り江に浮かぶ「フォード島」には、日米開戦の象徴とされる「戦艦アリゾナ」と、終戦の象徴とされる「戦艦ミズーリ」があり、それぞれ資料館・記念館になっています。米軍基地内のため立ち入りは制限されており、日本人観光客はツアーでの見学が基本です。
私が参加したツアーは、対岸の「ビジターセンター」を見学したのち、専用シャトルでフォード島へ渡り、戦艦アリゾナ記念館、戦艦ミズーリ記念館、パールハーバー航空博物館を巡るコースでした。
ビジターセンターにも展示ギャラリーがあり、博物館船となった潜水艦「USSボーフィン」も見学可能。艦体には、この潜水艦が撃沈した敵船を示す国旗が描かれており、日本の旭日旗も複数確認できました。
真珠湾攻撃という出来事
真珠湾攻撃は1941年12月7日(ハワイ時間)午前7時55分頃、日曜日を狙って行われました。
多くの米兵が休養や礼拝で戦闘態勢が手薄になる曜日であることを、日本側は事前に把握していたといいます。第一波では戦艦や飛行場を、第二波では燃料施設や取り逃した艦船を攻撃。
結果、アメリカ側は戦艦4隻が撃沈、航空機188機が破壊され、約2,400人が死亡。日本側も出撃した350機のうち29機が撃墜され、約60人が戦死しました。
この攻撃が「宣戦布告のない卑怯な奇襲」とされ、アメリカ世論を一気に参戦へと傾ける契機になったのは有名な話です。ただ、実際には日本側も事前に開戦通告を準備していました。在米大使館側の暗号解読や文書作成の遅れにより、本来は攻撃30分前に届くはずの通告が、結果として攻撃の1時間後にアメリカ側へ渡ってしまったというのが実情のようです。
また、「太平洋戦争の始まりは真珠湾攻撃」というのが一般的な認識ですが、実はその1時間前、日本軍はイギリス領マレー半島のコタバルに上陸していました。学校で教わる歴史がアメリカ視点に偏りがちであることを、あらためて感じさせられるエピソードです。
開戦の象徴「戦艦アリゾナ記念館」
対岸から見えていた白い建物は、真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの上に建てられた記念館でした。
船まで専用の船で向かい、浅瀬に沈む船体を間近に見学。
館内の大理石の壁には、アリゾナの乗組員1,177人を含む、攻撃で犠牲となった2,390名の名前が刻まれています。
引き上げが困難だったこと、遺族の意向もあり、今も約1,000人の遺体が船体とともに海中に眠っているとのこと。
さらに驚いたのは、戦後80年が経った今も、沈んだ船体から重油がわずかに漏れ続けていること。「アリゾナの涙」と呼ばれているそうです。手を合わせずにはいられませんでした。
終戦の象徴「戦艦ミズーリ記念館」
日本の終戦記念日は1945年8月15日とされますが、実際には8月14日のポツダム宣言受諾、8月15日の玉音放送、そして9月2日の降伏文書調印と、3段階を経ています。
この調印式が行われたのが、東京湾に停泊した戦艦ミズーリの甲板でした。
艦内はガイド付きで見学。沖縄戦で特攻機が突入した跡がそのまま残る甲板や、乗組員の生活空間、狭い通路などを巡ることができ、当時の暮らしを想像しやすい工夫がされていました。
特攻機のパイロットを軍葬で弔ったという艦長のエピソードも印象的でした。
パールハーバー航空博物館
戦時中の格納庫を活用した博物館では、ゼロ戦や戦艦アリゾナの鉄板など、開戦から終戦までの貴重な資料を展示。
真珠湾攻撃前にニイハウ島へ不時着したゼロ戦のエピソードも再現されていました。ハンガー79は真珠湾攻撃の弾痕が今も残る、当時のままの建物です。
まとめ
日本には「終戦記念日」がありますが、アメリカにはそれに当たる日がないといわれます。朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争など、その後も戦争が続いてきたからです。
日本が「戦後〇〇年」と数え続けられているのは、それだけ長く平和が続いている証。
パールハーバーという場所は、開戦と終戦、その両方の重みを静かに伝えてくれる場所でした。