「効率的であること」は、本当に合理的なのか?数字の裏側で私たちが失っているもの。
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「効率的であること」は、本当に合理的なのか?数字の裏側で私たちが失っているもの。
こんにちは!
突然ですが、皆さんは「効率」や「生産性」をどう捉えていますか?
今の世の中、特にビジネスの現場では効率的であることや生産性を高めることは、もはや疑う余地のない正義になっています。「数字で成果を出すこと」は資本主義社会における共通言語です。
でも、今日はちょっと立ち止まって、その「当たり前」について考えてみたいと思います。
「人間=ネジ」の方程式?
例を見てみましょう。
「1日10万個のネジを生産したい。労働者1人あたり1日1,000個作れるはずだから、100人雇おう」
「君の適性が開発だろうと企画だろうと関係ない。うちは『現場を知る』のがルールだ。新卒入社後の3年間は全員一律で飛び込み営業をやってもらう」
これらの発言は非常に論理的です。算術的に正しい。 でも、この考え方には、ある一つの巨大な前提が隠されています。
それは、「人間はみんな同じ(同質)である」という前提です。ネジの一つひとつが同じ規格であるように、人間もまた、交換可能な同じ規格の部品として扱われているのです。
「同質性」の功罪
人間を同質的な存在として扱うこと。 これは、ある意味では非常に「優れた策」です。なぜなら、個性を無視して「明らかに達成可能な標準的な仕事」だけを割り振れば、計算通りにある程度確実な成功(=1日10万個のネジ)が手に入るからです。
でも同時に、これは「きわめて愚かな策」でもあります。なぜなら、その方法では誰一人として100%のパフォーマンスを発揮できないからです。
その100人の中には、単にネジを作るよりも、
- もっと強度の高いネジをデザインするのが得意な人がいるかもしれない。
- あるいは、資材の調達ルートを最適化するサプライチェーンマネジメントの天才がいるかもしれない。
「全員同じ」という前提で扱うことは、そうした「突出した才能」に蓋をしてしまうことになります。
チームで勝つための「比較優位」の話
ここで、少しだけ経済学の話をさせてください。「比較優位(ひかくゆうい)」という考え方です。これはアダム・スミス、リカードといった初期の経済学者が提唱した概念です。噛み砕いて言うとこういうことです。
「苦手なことを頑張って平均点を目指すより、自分が『相対的に』得意なことに特化して、あとは交換(分業)した方が、社会全体の成果は最大になる」
例えばAさんはBさんより「資料作り」も「営業」も両方うまいとします。 それでも、Aさんが「超得意な営業」に集中し、Bさんが「(Aさんよりは遅いけど)営業よりは得意な資料作り」に専念した方が、Aさんが一人で全部やるより、あるいは二人がバラバラに動くより、チーム全体の成果は大きくなるのです。
「同質性」を前提に人間を扱うことは、この「比較優位への特化」を阻害してしまいます。 結果として、社会全体(あるいは会社全体)で生み出せるはずだった「富」や「価値」をドブに捨てているのと同じことなのかもしれません。経済学の観点からも同質性を前提に人間を捉える事は必ずしも優れた考え方ではないという事ができます。
「得意」に没頭する幸せ
比較優位に特化すること──つまり、一人ひとりが「違い」を活かすことは単に経済的な成果を生むだけではありません。 それは私たち「精神的な豊かさ」にも直結します。
誰だって苦手なことをやらされ続けるより、自分の好きなこと/得意なことに没頭している時の方が楽しいですよね? その「楽しい」「没頭する」というポジティブなエネルギーこそが、結果として最大の成果(アウトプット)を生み出す源泉になります。
私は効率を否定したいわけではありません。 ただ、「効率のために個性を殺す」のではなく、「個性を活かすことで、結果的に最高の効率を生み出す」。 そんな働き方や組織づくりこそが、これからの時代に求められている「本当の合理性」なのではないでしょうか。
産業の中心がもはや製造業ではなくなったこの時代はより一層『本当の合理性』を追求していくべきだと私は考えます。総合職採用、ベルトコンベアに乗せられたキャリア、規格化されたサクセスストーリーはもはや消費期限切れではないでしょうか?
私の考え方に共感頂けた方は是非お声掛けください。よろしくお願いいたします!