「人生は自己満に過ぎない」――合理的思考という手段を目的化してはいけない。
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「人生は自己満に過ぎない」――“合理性”という病に侵された現代人への処方箋
「家を買うならリセールバリューを第一に考えろ」 「労働収入だけではダメだ、投資を学んで複利で増やせ」
最近、SNSを開けばそんな“賢い”アドバイスで溢れかえっています。 無駄を省き、損をせず、効率的に資産を最大化する。それが「正解」であると、誰もが疑いもしない時代です。
けれど、あえてここで問わせてください。
ほんまにそうか?
その「合理性」とやらは、本当に私たちの人生を豊かにしているのでしょうか。
「合理性」は人類史におけるほんの瞬き(まばたき)
少し視点を引いて、歴史の話をしましょう。
私たちホモ・サピエンスが地球上に現れてから、およそ20万年~30万年が経つと言われています。 一方で、貨幣経済が庶民にまで深く浸透したのは中世以降。さらに言えば、今の私たちが囚われている「資本主義社会」なんてものが成立したのは、産業革命以降のたった200年程度の話に過ぎません。
人類の歴史を24時間に例えるなら、資本主義なんて最後の1分にも満たない出来事です。つまり、「損得勘定」や「効率」、「ROI(投資対効果)」といった物差しで人生のすべてを測ろうとする価値観自体が、人類史的に見れば極めて異質で・極端なカルト思想とも言えるのです。
それなのに、なぜ私たちはあたかもそれが宇宙の真理であるかのように、必死に「合理的」であろうとするのでしょうか。
明日生きている保障もないのに10年後の事ばかり考えても仕方がないんです。明日生きている保障の無い時期を過ごした経験のある私だからこそそう思います。
そもそも、生きていることに意味なんてない
もっと根本的な話をします。
私たち人間なんて、所詮は原子の集合体です。たまたま炭素やら酸素やら、有機体がいい感じに集まって電気信号が走った結果、「感情」だの「思考」だのが生まれているに過ぎません。
宇宙の悠久の歴史から見れば、私たちが生まれ、働き、悩み、そして死んでいくこと自体に、大した意味などないのです。 「何のために生きるのか」なんて高尚な問いを立てたところで、そこにあるのは物理現象としての事実だけ。
全てに、意味はない。
……と書くと、絶望的に聞こえるでしょうか? いいえ、逆です。これこそが最大の「救い」であり、「自由」への切符です。
意味がないからこそ、「自己満」でいい
あらかじめ決められた崇高な意味や目的がないのであれば、誰かの作った「正解」や、社会が押し付ける「合理性」に従う義理もありません。
リセールバリュー? 自分が「最高だ」と思える家に住めばいい。 市場価値?・投資効率? どうでもいい。自分が「面白い」と心が震える仕事に没頭すればいい。
どうせ最後は塵(チリ)に戻るだけの現象です。 ならば、その現象が続いているわずかな期間くらい徹底的に「自己満」を追求するべきではないでしょうか。他人の評価軸で測った「成功」よりも、自分の脳内物質がドバドバ出るような「納得」のほうが、生物としてよっぽど健全です。
狂気こそが、熱狂を生む
私が一緒に働きたいのは、小賢しい計算ばかりできる人達ではありません。
最終目標が「合理的」に見れば割に合わないことでも「やりたいからやるんだよ」と言い切れる人達。 意味のない人生に、自分だけの意味を勝手にこじつけて、勝手に熱狂できる人です。人生は自己満に過ぎない。 だからこそ、もっと純粋に・もっと愚直に、自分の「好き」や「ワクワク」に殉じて生きたい。
自己満な人生を最高のものにする為に合理的に考える。それが本来あるべき姿やと想います。最高の自己満を叶えていくためにリセールバリューを心配しなくて済む仕組みづくりや投資対効果を証明する仕組みづくりをやっていく事には大賛成です。
まとめると『“自己満な生きる目的”を忘れないようにすべき』という事が主張したい内容でした。私の考え方に共感頂けた方は是非お声掛けください。よろしくお願いいたします。