「理性」と「感情」の間に、本質的な差はない。──経済史と科学史を学びつつ、ビジコンに熱狂する私が考えた事。
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「理性」と「感情」の間に、本質的な差はない。──「感情による納得」は大切だ。
ビジネスの現場では、しばしば「ファクト(事実)」「論理(ロジック)」が絶対的な正義として扱われます。「その主張のファクトは?」「エビデンスはあるのか?」。もちろん、物事を前に進める上で事実と論理を基盤とする論理的思考は不可欠なツールです。
既に『純粋なファクトは存在しない』というストーリーで紹介させて頂きましたが、「事実である」と目で見て脳が認識しているものには個人差が存在します。我々人類は本当の意味でファクトを共有し・共通の認識をもって議論をする事は出来ないのです。その意味でファクトベースの議論は相手の賛同を得るための「強力な装置」であって、「万能な道具」ではない事は既に確認しました。
ここで新たに私は次のような事を問いかけたいと思います。「理性的に理解すること」と「感情的に納得すること」。この二つの間に、優劣はあるのでしょうか?
実はこの二つに本質的な差などないのではないかという気味の悪い事についてお話しします。
1. 「理解」と「納得」の正体
まず、私たちが普段何気なく使っている言葉の定義を、少し解像度を上げて見つめ直してみましょう。
「理性的に理解する」とは何か
それは、「客観的に観測可能な事実(ファクト)」 をベースにした主張を、論理的に受け入れる行為です。 もう少し深く言えば、私たちが社会で共有している「過去に目撃した物語(知識やセオリー)」の文脈に、目の前の事象を照らし合わせ、「ふむふむ、辻褄が合うな」と確認する作業に過ぎません。
*もう少し正確にいうと社会で共有している「過去に目撃した物語(知識やセオリー)」ではなく、個人が社会で共有していると思いこんでいる「過去に目撃した物語(知識やセオリー)」です。思いこみにすぎませんが以前に『純粋なファクトは存在しない』というストーリーで紹介させて頂いたように目に見えた事として語る為、多くの人を容易に納得させる力があります。
「感情的に納得する」とは何か
対してこちらは、「主観的な解釈」 をベースにした主張を、直感的に受け入れる行為です。 理性的な理解を経た後に、ココロの中に浮かんだイメージを、「自分自身が過去に経験した物語(体験や記憶)」 と重ね合わせ、「そうだ、これは自分にとって正しい」と腹落ちさせる作業です。
プロセスは同じである
こうして定義すると、ある一つの事実に気づきます。 「理性的な理解」も「感情的な納得」も、目の前の事象が「自分の中にある確かどうか怪しいデータベース(物語)」と合致するかどうかで正誤判定を行っているという点において、全く同じプロセスなのです。
違いはその参照元が「目に見える他者と共有しやすい物語(広範囲の理解)」か、「目に見えない、個人の固有性が高い物語(狭い範囲の納得)」かという点だけ。
既に述べたように「客観的な事実」と言われるものも、突き詰めれば「”多くの人がそう信じているだろう”と思いこんでいる事」という極めて属人性の高い合意形成の上に成り立っています。この世界に、本当の意味で誰もが100%同じように知覚できる「絶対的な事実」など存在しないのかもしれません。
だからこそ「理性的な理解」こそが常に正しく、「感情的な納得」は劣ったものであると考えるのは、大きな過ちであると私は考えます。
2. 幸福の定義と、感情の復権
なぜ私がこれほどまでに「感情的な納得」を大切にしようとするのか。それは、私たち人類が目指すゴールと深く関わっているからです。
「多くの人は幸福であろうとしている」 この主張に反対する人は少ないでしょう。では、「幸福である」とはどういう状態でしょうか?
それは「事実に対する主観的な解釈(ココロの中に浮かんだモノ)が、なんかいい感じである状態」と言い換えられます。
つまり、私たちが人生において最も大切にしている「幸福」の正体は、論理的な正解への到達ではなく、「感情的に納得し、満たされること」に他ならないのです。
3. 「コスパ」という現代の病理を超えて
現代社会では、幸福(=感情的な満たされ)を求めているはずなのに、それを得るために必ずしも適切でない手段である「理性的な処理」が過剰なほど重視されています。
SNSを開けば「論破」という言葉が飛び交い、「それってあなたの感想(感情)ですよね?」と個人の内なる物語が軽視される風潮があります。 ビジネスにおいても短期的な数字が見えやすい「刈り取り型の広告(ニーズ顕在層へのアプローチ)」ばかりが優先され・中長期的な信頼や愛着を育む「ブランディング」が、数字で証明しにくいという理由だけで後回しにされがちではないでしょうか?
「結婚式はコスパが悪い」のか?
極端な例ですが、「結婚式や結婚指輪はコスパが悪い」という言説があります。 論理的・金銭的な「ファクト」だけで見れば、そうかもしれません。しかし、人間は感情ベースで生きる生き物です。家族やパートナーとの絆、その瞬間の感動という「感情的な反応の最適化」こそが人生の豊かさであるはずです。
そこにある感情の価値を無視して、表面的なファクトだけで「ムダ」と断じること。その思考の先に私たちが本当に望む「満たされた人生」はあるのでしょうか?
ビジネスも同じです。消費者もまた人間です。 一見効率が悪く見える「感情への投資(ブランドマーケティング)」──例えばコカ・コーラのサンタクロースの広告、ハインツのケチャップのように機能的価値を超えて人々の記憶や愛着に訴えかける活動──こそが長期的には最も大きな利益と、何より「愛される存在」としての地位をもたらすと私たちは信じています。
4. なぜ私たちは「理性」に縛られるのか
少し視野を広げて、歴史的な背景にも触れておきましょう。なぜ現代人はこれほどまでに理性的であることに価値を見出すのでしょうか。
それは、近代社会の根幹が「共通言語化」にあるからです。 かつての中世社会のような宗教(感情ベースの物語)が支配する世界から、近代化の過程で社会は変化しました。王権神授説から法の支配へ。神という主観的な物語を抜き「事実で構成されているっぽい物語(科学や論理)」を共通言語にすることで、人類は社会を拡張させてきました。
いわば人類全体が「理性」という「同じメガネ(近視眼)」をかけることで事実とその因果関係を共有し、文明を発展させてきたのです。 (かつて「地動説」が非常識とされ、今は常識とされているように私たちが信じる「事実」もまたその時代のパラダイムという物語の上に成り立っているに過ぎないのですが)
「目に見える事実っぽい物語」を大切にしてきた結果、今の便利な世界がある。その恩恵は計り知れません。しかし、私たちはそろそろその「システム」の中で置き去りにしてきた「個人の感情」を取り戻すフェーズに来ているのではないでしょうか。
結びに:もっと感情を大切にしあおう
私は論理を否定したいわけではありません。論理は多様な背景を持つ私たちが協働するための素晴らしい「共通プロトコル」です。
しかし、人を動かし・人生を豊かにし・最終的に幸福を感じさせるのは、いつだって「感情」です。
「論理的に正しいか」だけで判断するのではなく、「感情的に納得できるか」「ワクワクするか」「美しいと思えるか」を大切にしたい。 合理性の追求の先にある限界を突破するのは、いつだって非合理に見えるほどの「熱量」や「想い」だからです。
私は論理で考えつくし、最終的には感情を大切にする意思決定を行う人間であります。