🌿第五章 祈りの礁(いのりのリーフ)
🌿第五章 祈りの礁(いのりのリーフ)
早朝の海は、息をひそめていた。
風も波もなく、
ただ、世界全体がひとつの呼吸をしているようだった。
その静けさの中で、私は思う。
「祈り」とは、言葉ではなく、
ただ“在る”ということなのかもしれない。
ボートが止まり、エントリーの合図。
ゆっくりと海に身を委ねる。
水面が背中を包み、体温が潮に溶けていく。
潜降するたび、音が遠ざかり、光が変わる。
やがて視界いっぱいに、珊瑚の森が広がった。
朝の光を受けて、
枝珊瑚が金色に、テーブル珊瑚が銀色に輝いている。
そこに群れる魚たちは、まるで祈りの花びらのようだった。
ゆらめく光の中で、
無数の命が呼吸を合わせている。
それは言葉のない合唱。
海という大いなる楽譜の上で、
命たちが旋律を奏でている。
私はふと、胸の奥で手を合わせた。
祈る相手は、誰でもなく。
ただ、今ここに在るという奇跡そのものに。
かつてこの海で生まれ、
消えていった無数の生命。
その記憶が潮の流れに溶け、
いまもこのリーフをめぐっている。
「いのちは終わらない」
海が、そう言っている気がした。
ゆっくりと浮上すると、
水面がきらめき、空がひらける。
そこに広がる青は、どこまでも続く祈りのようだった。
ボートの上で、濡れた髪を風が撫でる。
遠くでトビウオが跳ね、
光の中を、静かに虹が架かる。
ああ、
海はやはり、祈りのかたちをしている。
それは誰かのためではなく、
ただ、すべての命のために。