朝霞市に住んでいると、何度も通っている場所が突然まるで別の意味を持ち始める瞬間がある。私にとってそれは朝霞駅の階段だった。通勤のたびに上り下りするだけの存在だったはずが、ある朝ふと見たとき、階段全体がこちらに向かって揃って呼吸しているように見えた。もちろん実際に動いているわけではない。だが、階段の段差ひとつひとつが人の足音と心のリズムを吸い込み、まるで何かを企んでいるような不思議な気配を放っていた。
私はその気配がとても気になり、いつものように急いで改札に向かう途中で思わず立ち止まってしまった。すると前を歩く人たちの足音が微妙にずれながら階段に吸い込まれ、そのたびに段差がわずかに膨らんだり沈んだりするように感じられた。それは単なる錯覚かもしれないが、私はその揺らぎにどこか人の感情が混ざっているように思えてならなかった。朝霞で暮らす人たちが抱える焦りや期待、眠気や希望が、階段の段差にたまっていくような感覚だった。
その日は電車に乗る気が起きず、階段の横にある小さなスペースに腰を下ろしてしばらく様子を観察した。すると階段を上り下りする人たちの表情や歩幅が、階段の雰囲気と不思議と一致して見えてきた。速い人は段差のリズムを乱していくようで、ゆっくりの人は階段に寄り添って歩いているようだった。階段はただの構造物ではなく、朝霞の住民と毎日対話をしているのかもしれないと思った瞬間、私はその場所が急に尊いものに思えてきた。
しばらく観察していると、階段が朝だけ特別に柔らかい表情を見せる理由がわかってきた気がした。朝の時間帯は人の気持ちが最も揺れやすい。仕事に向かう緊張、今日に期待する気持ち、眠気との戦い。そうした揺らぎを階段は全部受け止めて、段差の隙間に優しくしまい込んでいるように感じられた。夕方になるとその隙間から疲れをそっと吸い上げ、人々の足取りを軽くして送り出しているのかもしれないと想像すると、階段の役割は目に見える以上に奥深いものに思えた。
私は階段が吸い込んだ感情がどこに行くのかを考えた。もしかすると駅の中だけにとどまらず、朝霞の街全体に少しずつ流れ込んでいるのではないか。街の空気が柔らかいと感じるのは、誰かの小さな疲れや希望が街に混ざり合い、それが人と街の関係を少しずつ丸くしているからなのかもしれない。そう思うと、街の雰囲気は単なる環境ではなく、住む人の気持ちが折り重なってできたひとつの大きな生き物のように思えてくる。
朝霞駅の階段が企んでいるのは、人の感情を吸い込み、それを街へゆっくり還元していることなのかもしれない。誰も気づかない場所で、街の機嫌をそっと整えているように思えた。そのことに気づいてから、私は朝霞の街を見る目が変わった。忙しさの中に埋もれていた人の気持ちの跡が、街のあちこちに静かにたたずんでいるように見えるようになった。
私はこれからも朝霞駅を通るたび、階段がどんな表情をしているのかを確かめたくなるだろう。階段を上り下りするだけの毎日の中に、実は街の呼吸が潜んでいるのだと思うと、通勤が少し楽しみになった。朝霞という街は、人の気持ちが形を変えて積み重なり、そのひとつひとつが街の景色をつくっている。その中心で、あの階段は今日もひっそりと誰かの物語を受け止め続けているのだろう。