【増汐義信】名刺よりも靴の音で仕事を覚えてもらった話
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仕事で初めての商談に向かうとき、名刺入れを手にするよりも先に頭に浮かんだのは、自分の歩く音だった。面談の場で自己紹介をする前に、相手はすでにこちらの足音を聞いている。その音が自信に満ちているのか、急ぎすぎているのか、あるいはためらいがちなのか。名刺よりも早く伝わるのは、歩調が生み出すリズムだと気づいた瞬間、私にとって仕事の景色は少し違って見え始めた。
オフィス街の朝のアスファルトを叩く無数の足音は、合奏のように鳴り響く。そこに自分の音がどんなふうに混ざり、あるいは埋もれていくのか。通勤のときからすでに一日が始まっている実感を与えてくれる。面白いのは、同じ靴でも気持ちの状態によって音の響きが全く違うことだ。自信のある日は軽やかで、落ち込んだ日は重たく、時にはリズムがばらばらになってしまう。つまり靴の音はその人の履歴書の一部のように正直だ。
以前、あるプロジェクトで初対面のクライアントに「あなたの足音を聞いて、すぐに前向きな人だと思いました」と言われたことがある。名刺交換をする前から印象が決まっていたことに驚いたが、それ以来、私は歩くリズムを大切にするようになった。まるで自分のテーマ曲を刻むように、一定でしなやかな音を心がける。それが自分を整えるルーティンにもなっていった。
逆に、自分が人の足音に敏感になったこともある。廊下を歩いてくる音だけで上司か後輩かがわかり、会議室に入ってくる前からその場の空気が変わるのを感じる。言葉よりも先に届く音の存在感は想像以上に大きい。仕事の場では論理や数字ばかりが重視されがちだが、実は人間同士をつなぐのは、こんな原始的な要素かもしれないと考えるようになった。
だからこそ私は「自分の仕事を覚えてもらうためには、まず音で記憶に残ること」が大切だと感じている。派手なパフォーマンスをする必要はないけれど、足音一つで自分らしさを表現できるなら、それは立派な自己紹介だ。名刺や肩書きは一瞬で忘れられてしまうこともあるが、独特のリズムを刻む音は意外と心に残る。仕事相手にとって「あの歩いてきたときに印象的だった人」という記憶が残れば、それは次の会話を引き寄せるきっかけになる。
最近では、忙しい日ほどわざと歩みを整えるようにしている。慌ただしい心をリズムに合わせて落ち着けると、自然と表情や声のトーンも変わってくる。つまり足音を意識することは、仕事のパフォーマンスを支える習慣になり得るのだ。
名刺交換や自己紹介の言葉よりも、先に相手の心に響くのは靴の音。そんな小さな気づきが、働き方や人との関わり方を面白くしてくれる。私は今日もまた、自分の足音をテーマ曲にしながら仕事の場に向かっている。