相談を受けたとき、最初にやることは決まっている。励ますことでも、見通しを語ることでもない。現在地を数字で確定させることだ。
これが、だいたい嫌がられる。
気持ちは分かる。調子の悪いときの数字ほど、本当に見たくない。歯が痛いのに歯医者へ行かない人と、構造は同じだと思っている。行けば楽になると分かっていても、痛いところを指されるのが怖い。分かっていても足が向かない。人間はそういうふうにできている。
ただ、そこだけは譲らないことにしている。
願望は計画ではない
「たぶん、来月には入るはずです」
「あれが決まれば、いけると思います」
この手の言葉が出てきたら、いったん止める。それは見通しであって、計画ではないからだ。決まっていないものを前提に置いた瞬間、その計画は「うまくいけば大丈夫」という話に変わる。うまくいかなかったときに何をするのかが、どこにも書かれていない。
計画というのは、うまくいかなかった場合に何をするかまで決めてあるもののことだと思っている。だから、いつまでに、いくら、誰が、どうやって、が埋まらないものは計画として扱わない。ここはけっこうしつこく詰める。感じは悪いと思う。自覚はある。
数字を出すのは、追い詰めるためではない
厳しいことばかり言っているようだが、目的はむしろ逆にある。
現在地が分からないうちは、打ち手が選べない。あと何ヶ月もつのかが分からなければ、今すぐ動くべきなのか、もう少し整えてから動くべきなのかを決められない。分からないから、いちばん怖い前提のまま身動きが取れなくなる。
数字を置くと、これが変わる。思っていたより時間が無いこともあるし、思っていたより残っていることもある。どちらであっても、そこから初めて選べるようになる。数字は追い詰める道具ではなく、選択肢を取り戻すための道具だと思っている。
だから、いちばん見たくない数字から先に見る。
決めるのは経営者で、隣に座るのがこちら
厳しく詰めはするが、決定は経営者のものだ。数字を並べて「だからこうすべきです」と正解を押し付ける仕事ではないと思っている。並べたうえで、どれを選んでも動けるように材料を揃える。選んだあとにうまくいかなければ、一緒に組み直す。
途中で降りないことだけは、決めている。
現在地を突きつけておいて、あとはご自身でどうぞ、というのがいちばん無責任だと思う。見せた側は、見せた責任として、そのあとも隣にいる。厳しさと冷たさは違う、というのが自分の中の線引きになっている。
おわりに
そんなわけで、今日も誰かの見たくない数字を見に行きます。
自分の分もちゃんと見ています。見ています。だいたい見ています。