資料を見ていて手が止まるのは、数字が大きいときでも小さいときでもありません。この数字がどこから来たのか分からないときです。
一枚の表の中に、確定した実績と、これから起きてほしい見込みと、とりあえず置いた仮の値が、同じ字体で並んでいる。そういう資料はよく見かけます。作った人に悪気はありません。むしろ丁寧に作り込まれていることのほうが多い。それでも、そのままでは使えません。
うちでは、事実と予測を同じ見た目で並べません。実績には出どころを添えます。どの帳票の、いつ時点の数字なのか。予測には根拠と、どのくらい確からしいかを添えます。仮に置いた値は、仮であることと、その値が外れたときに何がどう動くかまで書きます。手間はかかります。それでも分けます。
理由は、混ざった資料は判断に使えないからです。
判断というのは、確からしいものと、まだ揺れているものを見比べる作業です。どれが揺れているのかが分からない資料を渡されると、経営者は全部を疑うか、全部を信じるかのどちらかになります。全部疑えば決められません。全部信じれば、根拠の薄いところから足元が抜けます。どちらも避けたい。
そしてもうひとつ。予測が外れたときに、混ざった資料は原因を教えてくれません。分けてあれば、外れたのが前提なのか、計算なのか、実績の読み違いなのかが分かります。分かれば直せます。混ざっていると、資料ごと信用されなくなって終わりです。一度そうなると、次に正しい数字を持っていっても目を通してもらえません。
だから、分けるのは厳密さのためというより、その資料を長く使ってもらうためです。
面談では、数字を出すたびに「これは確定です」「これは見込みです」と口に出します。しつこいと思われている自覚はあります。ただ、口に出しておくと、あとで前提が変わったときに「あそこは見込みでしたね」から会話が始められる。言っていないと、「話が違う」から始まってしまいます。
分からないものを分からないままにしておくのも、この考え方の一部です。確認していない数字を、それらしい顔をして表に入れない。空欄のほうがまだ正直です。埋まっていない資料は格好がつきませんが、埋めた嘘よりはるかに扱いやすい。
もっとも、これを徹底していると、言葉づかいまで固くなってきます。世間話の相づちにも「たぶん」と「確実に」を使い分けようとして、ひと呼吸遅れる。仕事の癖というのは、思っているより外に漏れるものだと感じています。
数字を分けるのは、相手を疑わせないためです。ここは確かだ、ここはまだ揺れている。それがひと目で分かる資料は、読む人の負担を減らします。
計画書の精度は、予測を当てる力ではなく、どこまでが事実かを言い切る力から先に上がっていきます。
もし一緒に働くことがあれば、最初に覚えてほしいのはこの一点です。確認していないことを、確認したように書かない。そこさえ守ってもらえれば、資料の作り方も検算の作法も、あとからいくらでも渡せます。