人間がほぼサルから進化したとすれば、そもそも「数」の認識をどうやって獲得していったのだろうか。
サルに限らず動物は、「4」くらいまでの数(数量)は、理解できるらしい。
カッコウの托卵の話も、巣の中の卵の総数が変わらないため、里親が異変に気づきにくいという性質を利用している。
どうやら動物もある程度は数が数えられているらしい。
しかしながら、なぜ人間だけが大きな数を数えられるのか。
そして、概念である「数」という思考を獲得できたのか。
これは本当に謎である。
単に「人間には知性があるから」という理由だけでは説明がつかないと思うのだ。
生物の進化は連続的であるはずだから、数に対する人間の認識と、他の生物の認識の中にグラデーションがあってもよさそうだ。
例えば、100くらいまで認識できる動物が他にいても不思議ではない。
しかし、そこは完全に分断されている。
高々「数えるだけ」のことにも関わらず、人間以外に数えられる生物がいないというのは、どういうことか。
人間が赤ちゃんとして生まれ、「数」を覚えていく過程で、「指」の存在は非常に大きい。
人類が数を認識した過程が、まさに「指」のお陰だとしたら、これは凄いことだ。
実際に指を1本ずつ折り曲げて、「数」を数えていく。
「数」という「概念」を、自身の「指」と結びつけ、具体化して「認識」しているのだ。
全人類が、数を覚える過程で、指が必須という訳ではないだろうが、役割として大きな存在なのは腹落ちする。
実際に私の知り合いだが、ちょっとした計算について、指を折り曲げながら思考している様子をよく見かけた。
人間にとって、数や計算と「指」の関係性は非常に密接と言える。
しかしながら、よくよく考えてみると、非常に不思議なことだ。
例えば、指を1本ずつ折り曲げる動作は、他の生物ではほとんど見られないのだという。
実際に指を1本ずつ折り曲げて数を数えたとしても、1(親指)・2(人差し指)・3(中指)を折り曲げ、薬指と小指が立っている状態の手の形はあまりにも不自然で、この手の形が「数える」という行為以外で何かの役に立つとは到底思えない。
なぜ、人間がこんな手の形(指のポーズ)ができるのか。
「数」という概念を脳内で認識したから、それを形として表現するために「指折り数える方法」を発明したのかもしれない。
「人間は計算する生命である」
この言葉を聞いて、最初はピンとこなかった。
計算と言えば、コンピューターや電卓がやるもので、血の通った生命とは対極にあるような気がしたからだ。
しかし生命は、ただ環境に適応して生き延びているだけではない。
環境を自らの内側に取り込み、何らか脳で処理し、未来を予想し、そして主体的に行動する。
結局、ここで言う「何らか脳で処理」のことが、無意識下の膨大な計算ということになる。
自分自身では意識せずに「今日の晩ご飯は何にしよう」と思案するだけだとしても、脳内では膨大な計算がされているということだ。
当然、恋愛の駆け引きなどは、脳が処理不能になるくらい、フル回転で計算していることになる。
実はもっと基礎的なことも、計算されることで次の動きが決まる。
例えば、歩くという行為一つをとっても、計算そのものだということだ。
実際に、地面の傾斜、風の強さ、自分の筋肉の状態など、無数の変数を瞬時に計算し、最適な動きを弾き出している。
飛んでくるボールをキャッチする時も、風向きや速度を瞬時に計算している。
自転車に乗ってバランスを取る時も、無意識のうちに高度な物理演算を行っているようなものだ。
この計算能力は、AIやコンピューターのそれとは根本的に異なる。
コンピューターの計算は、与えられたアルゴリズムに従って計算をするために、非常に論理的だ。(要はプログラミングのことだ)
一方で、生命の計算は、環境との相互作用のなかで常に変化し、更新され続ける動的なものである。
プログラミングとは異なり、計算を通じて世界と交わり、自らを作り変えているというべきか。
この「生命の計算」という概念は、非常に理解しにくい。
少なくとも、人間とコンピュータは「数の数え方、計算方法が違う」ということが出発点になる。
これは、これからのAI時代を生きる上で、非常に重要な考え方のような気がしている。
人間とコンピュータは、どこがどう違うのか。
現代は、コンピューターが発達し、あらゆる計算を肩代わりしてくれる時代になった。
特に生成AIは、膨大なデータを瞬時に処理し、人間のような文章や画像も生成してしまう。
論理的な計算や情報処理の速度において、もはや人間はコンピューターに勝つことはできない。
このままAIが進化を続ければ、人間の知性は不要になってしまうのではないか。
そんな不安をついつい抱いてしまうが、本書で記載の通り、生命としての人間が持つ「計算」の能力と、コンピューター上の「計算」は、全く別モノと考えると、違う景色が見えてくる。
コンピューターは、与えられた目的に向かって、ひたすら効率的に計算を行う。
しかしそこに、「何のために計算するのか」という「目的」はない。
その目的をコンピューター自身が設定することは、相当に難しい。
世界に対して意味を見出し、感情を抱き、価値を創造するのは、やはり心と身体を持った人間がすべきことだと思う。
ある出来事に対して、なぜそれが美しいのか、なぜ悲しいのかを感じることができる。
美味しいものを食べた時の幸福感、美しい景色を見た時の感動。
これらの「納得感」や「意味の生成」こそが、生命特有の計算の結果と言える。
AIは効率的にタスクをこなすことはできても、自ら生きる目的を設定したり、世界に意味を見出したりすることはできない。
我々人間は、この生命としての特異な計算能力をより深く理解し、磨いていく必要がある。
これからの時代、我々人間に求められるのは、機械のように正確に計算することではない。
むしろ、効率性や論理性に縛られすぎず、直感や感情、身体的な感覚を大切にすることだ。
不確実な環境のなかで、試行錯誤しながら自分なりの答えを見つけ出していく。
失敗を恐れず、他者と対話し、共感し合いながら、新しい価値を創造していく。
これこそが、計算する生命としての人間らしい生き方だろう。
機械にはできない、人間ならではの「計算」を存分に楽しめることが大事になってくる。
本書を読み進める中で、私たちが普段当たり前だと思っている「数」や「計算」という概念が、いかに豊かな背景を持っているかに驚かされた。
人類が長い進化の過程で獲得してきたこの能力は、単なる道具ではない。
むしろ、我々の存在そのものを規定する重要な要素と言える。
数の認識の起源についての謎は未だ解明されていないが、だからこそ探求する価値がある。
生命の歴史や進化について考えることは、我々自身が何者であるかを問うことでもある。
現代社会はあまりにも複雑化し、情報が溢れかえっている。
そのなかで自分を見失わないためには、時には根本的な問いに立ち返ることが必要だ。
「計算する生命」という視点は、世界を全く新しい角度から見せてくれる。
これからも、テクノロジーは進化を続け、我々の環境は変化していくだろう。
しかし、生命としての本質が変わることはない。
環境と交わり、計算し、意味を見出しながら生きていく。
先人たちが、世界を理解しようと必死に計算し、思考した結晶が、今の数学なのだと思うと感慨深い。
そのプロセスを楽しみながら、不確実な未来に対しても、ブレずに進んでいければよいと思う。
(2026/1/20火)