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生きやすさに偏りのない交差点的社会に

 「不安とは、自由であることのめまいである」

 この言葉はキルケゴールというデンマークの哲学者の言葉です。私が生きている時代はキルケゴールが生きた時代からは200年ほど異なります。ですが、上の言葉は、今の私たちにも、非常に刺激的な言葉ではないかと思います。

 現在、日本にはあらゆる分野でシステムの誤作動が起きています。”モリカケ”問題は国家という安全装置の不安定さを露見しただけでなく、エビデンスベースで真実を語ることの無力さまでもつきつけています。「少子高齢社会」が進み、労働人口が激減しています。一年で200万人人口が減っています。”人手不足”が叫ばれ、就職活動も早期化しています。しかし、”人手不足”という言葉はなんと心無い言葉だろうと思います。日本という国はかつてより多様性を認めず、あらゆる境遇の人々の呼び名に”not”を意味する言葉をつけてきました。非人、非国民、外人、障害者(not 健常者)などです。この"not"をつけるという作業が習慣化され、私たちの意識に埋没した結果、私たちは「わざわざ"not"をつけなくてもいいよね」という認識を共有するようになった。それが”人手不足”という言葉に表れていると私は思います。

 つまり、”人手不足”と言われる”人手”とは限られた人々しか指していないということです。この言葉は半分事実であり、半分嘘であると思います。なぜなら、この”人手”として数えられていない人々がいるからです。なぜ、”人手不足”にも関わらず、在日外国人の方々の半数以上が生活保護を受けているのでしょうか?なぜ、”人手不足”にも関わらず、非正規雇用の方々は生活に苦しんでいるのでしょうか?なぜ、”人手不足”にも関わらず、留学生たちは日本で雇用が得られず、帰国せざるを得ないのでしょうか?なぜ、”人手不足”にも関わらず、雇用につけない人がいるのでしょう?

 私はまだ社会で働いたこともない青二才、甘っちょろい考えしか持っていないと思います。ですが、上の問いの答えがどうしても分からない。私の中で納得のいく答えは、「”人手不足”と言われる時の”人手”とは非常に限られた条件をすべて満たす特権階級のことであるから」というものです。

 ”人手不足”の例は、私が抱えている疑問の一部でしかありません。今の日本にはすぐには答えが出ない、もしくは、これまでの解法では解けない課題が山積みであります。この日本で生きることに、生きていくことに私は名状しがたい不安を抱えております。この先の社会に役に立つのかも分からない学問を日々学び続け、限られた学資の中で高額な絶版本や洋書を買うために生活をやりくりしています。この名状しがたい不安に押しつぶされそうなとき、ふとキルケゴールの言葉を思い出します。

「不安とは、自由であることのめまいである」

 いかなる時代、時節であっても相違はないかとも思いますが、あえて、視界の狭い表現をさせていただきますと、今は新たな時代への転換点であります。つまり、この先の未来を創るも壊すも、私たち次第であるように思います。不安多きことの恐怖とのつきあい方、それは即興で演劇をつくる際にも学ぶ必要のある態度です。即興で演劇をつくっている間、もし不安を感じたなら、道筋は合っているのです。なぜなら不安のある方向へは、新たな可能性があるはずだからです。

 だからこそ、私は強い意志を持って、社会に出ていきたいし、その意志と合致する企業でパフォーマンスをしたい。しかし、私は同時に学ばなくてはなりません。過去、強い意志を持ち、社会をつくろうとしていった者たちがいかなる末路を辿ったかということから。風に対して、幹を固くする木々はむしろ簡単に折れてしまいますが、強風に抵抗するのではなく、自分の形を柔軟に変えた柳は風と共存することができます。柳に当たった風は柔らかくそよぐようになります。どちらか一方が妥協した訳ではないのです。互いに、互いの一部になった。そんな感じがします。

 これからの社会、私たちはこの「風と柳」の関係から何かを学ばなくてはならないように思います。他者に対して”not”をつきつけるのではない。無理な”yes”で妥協するわけでもない。各人が各人にとっての通過点であるような、交差点であるような、有機的なつながりをもった関係を築いていく必要があるように思います。強い意志と変わりやすい態度を持って。

生きやすさに偏りのない社会にしていきたい。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

東京学芸大学大学院 教育学研究科 総合教育開発専攻 表現教育コース     堀光希