「わからない」の魔法
わたしは、昔から「曖昧なもの」がすきだ。
それは、うちの家族がみんなハッキリと自分の意見を貫くタイプ(敢えていうなら理屈っぽい)ばかりだから、それに対する反骨心から形成された思考かもしれない。
あと、単純に、曖昧な考え方は楽チンだから。
そんなわたしは最近、「わからない」ということばのもつ魔法のような威力について考えている。
「わからない」なんて、まさに曖昧の代表格ともいえるふわふわなことばだけど、実はとんでもない有能性を秘めているのではないかと気づいた。
たとえば、わたしは最近他人との価値観のちがいを体感した。
そんなの当たり前なのは百も承知のつもりで生活していたけど、普段めったに他人とぶつかる場面がないわたしにとっては少しの衝撃が走った。
「あなたとは価値観がちがうね、面白いね」で済めばそれでいいのだけど、わたしはこの時、相手から今後いっさいの関わりを断ち切られてしまった。(重大な出来事のように聞こえるけど、実際は大した範囲じゃないのでとくに問題ない)
わたしはこの時若干のショックを受けたけれど、それも仕方なし。世の中には、価値観がちがうと感じた人とは一切関わりたくないという人もいるということを知った。
でもやっぱりわたしの心は少し凹んでいたので、なんとか回復させるべく、わたしの得意な "必殺・ポジティブ変換" をつかった。
他人とズレたということは、自分の芯ができたということ。みんな違って当たり前だし、人は成長するにつれて自分にしかない見方を形成していくものだ。
これってもしかして、成長が目に見えた瞬間なのでは?とおもうと、わたしは不思議と心が晴れやかになった。いやあ容易いな〜わたし。
わたしは、この人とは明らかに価値観が違かった。
「価値観が異なる人同士だからこそ、関わってみると面白い」と思うわたしにとって、「価値観の違う人とは関わらない」というポリシーを保つ相手のことは理解できなかった。そして、相手も同じように、わたしのことは理解できないのだろう。
お互いの間をたしかに埋めているのは、「わからない」だった。
わからない。わからない。
なんて、ふわっとした言葉なんだろう。
学校で先生に指されたとき、「わからない」と言ったら怒られもしたっけ。それはきっと、わかろうとすらしていなかったからかもしれない。
わかろうとする努力をしても、結局わからない。それでいいんじゃないかと思う。
それでも社会には、円滑な人間関係を築かなくてはいけない場面が多々あるし、幾度となく「わからない」場面に遭遇するだろう。
でもそこで一番大事なのは、「相手をわかろうとする姿勢」なのかもしれない。
わからなくてもいい。ただ、相手にベクトルを向けた姿勢で接することが、相手にいちばん素直に「わかりたいんだけど、わからないんだ」というメッセージを伝えるための方法なのだと思う。
わたしが感じたとおり、わからないことはとってもポジティブなことだと思う。
自分と相手がちがうって、つまりそこには人それぞれの「芯」が存在するってこと。それってすごく良いことじゃないか。
世の中は、そうやって各々がもつ大切な「芯」を尊重しあうために、「曖昧」によって埋め尽くされているのだなあ。
「わからない」って、"違い" をやさしく受け入れる魔法のことばだ。