イマこそ発信したい「ルーティンのすすめ」
「ルーティン」というものについて考えてみた。
家ごもり期間が始まってから、わたしは以前より、ルーティンとか習慣とかを意識するようになった。なぜかというと、やることも行く場所も制限されて行動の選択肢がすくなくなっている今、「これをやろう」という自発的な意識づけがいっそう必要になっているからだ。外出自粛こそが最善の手立てである今、「じっとしている」ことが私たちに最も求められていることはたしかであるが、「じっとしている」とは「なにもしない」ということではないのだ。だけど人の行動も経済も急速にスピードダウンしている今、身体の物理的な休止にのっかるように、頭のなかまで一気にストップしてしまう。少しほっておくと、わたしはぼやっとした意識のままラクな方へラクな方へと動き出してしまうのだ。
わたしは去年の年明けあたりから、もう1年3か月くらい、習慣にしていることがある。夜、夕飯を食べたあと、近所の公園(1週1キロの大きなトラックがある)を走ることだ。最初のうちは1キロ、2キロからスタートして、今では5キロ分(トラック5週)走るのが恒例だ。わりと飽きやすい方であるわたしにとってこれは貴重な習慣化の成功例であり、これからも続けようとおもっている。
在宅期間になってからも、ランニングだけは続けている。おかげでこんな非常事態の世の中でも、「いつもの自分の生活」を維持できている大切な時間になっている。
それだけじゃない。わたしはつい最近、「日記をかく」という新たな習慣化をはじめた。寝る前に机に向かって、決まったノートに決まったペンで1日1ページ、その日あったことを思い出しながら「いま考えていること」を記録する。きっかけは、近頃のわたしは、毎日の生活を通して大して意味をのこせていないと思ったからだ。外に出て日々いろいろな人に会って、いろいろなものを見て、たくさん吸収していた時の生活に比べて、1日あたりの感情の吸収量が圧倒的に少ない。「あれ、今日なにをしていたっけ?」とか「今日はなにを考えたんだっけ?」という虚無感と罪悪感をこころに抱えたまま「まあ、そんな日もあるか」というテキトウな評価で、1日を終わらせてしまう。そんなザルに水が流れていくような生活にもったいなさを感じ、1日1日にすこしでも「意味」を残そうと思って辿り着いたのが「日記をかく」ということだった。
日記をかこうと思ったとき、迷ったことがある。わたしは少し前にiPadを購入してから、そこに絵や文章を残していく生活にすっかり慣れていた。iPadならいつでも持ち運べるから、書きたいときに書けるし、見たいときに見れる。「何を書きたかったんだっけ?」となることもないし、「こんなことを考えたんだ!」とだれかに見せることもできる。だから、あえてアナログで記録することに、あまりメリットが感じられなかった。でも今はせっかく時間もあるし、どうせ同じところに留まっている生活だから、ためしてみてもいいんじゃないかと思って始めたわけだ。日記をつけ始めてまだ6日目くらいだけど、わたしはようやくそこで、「ルーティン」というものの性質と、それが自分に与える影響に気づいたような気がしている。
ルーティンというのは、ある種のリズムだ。楽器を演奏していて、つい気持ちに乗りすぎて走りすぎてしまったときや、気づかぬ間に遅れてしまったとき、歩調を戻すためにメトロノームに耳をすませる。そんなメトロノームの役割を、ルーティンが担うことがある。だから、生活の中であらゆる感情の波にのっている、起伏のある自分とは切り離した存在でなくてはいけない。どんなに散らばっても、かならずここに戻ってくる。
たとえるなら、小学校の休み時間、校庭中で各々の行動をしていた子どもたちが、約束の時間になると先生が吹いた「ピー!」という集合の合図で、校庭の真ん中に一斉にあつまってくる。子どもたちは集まって、「あれが楽しかったね」「次はあれをやってみたい」という会話をして、また次の自由なチャンスに向けた計画を練る。反省や挑戦は、一度おちついた気持ちになってじっくり考えてみないと、なかなか生まれなかったりする。逆にいえば、私たちは「いつもの合図」があるから、安心して自由性を発揮できるというのも考えられる。カーナビがあるから、「こんな道に進んでみよう」という冒険にもつながるし、料理の知識があるから、シェフはさまざまなアレンジを加えて新作を作り続ける。そういうことの繰り返しなんじゃないかと思う。
わたしが普段メモとして持ち歩いているiPadは、「記録する」という役割は同じであっても、日記の「ルーティン」とは違う。いつでもどこでも自分にくっついている存在は「リズム」とはいえないからだ。デジタルとアナログは「代替品」として比べるだけではなく、「併用品」として並べてもいいと思う。
ルーティンは、「不安定な状況」にとても有効だ。先がなにも見えなくて、暗闇に立ち尽くしているとき。行きたい場所に向けて、なんとか道を開拓しようとしているとき。そういうときに日々の一進一退はつきもので、今日の自分は昨日からまったく変わっていないんじゃないか、と不安になる。そういうときって精神が不安定だからこそ、評価の仕方もぶれぶれになりがちなのだ。少しの落ち込みをとんでもない失態のようにとらえてしまったり、些細な成長に気づけなかったり。今日の自分を評価するのは、できれば今日の自分じゃないほうがいいのだ。でも、反省というのはなるべくその日じゅうに済ませて、次の日に活かしたほうがいい。だからこそ、どんな状態で1日を終えてもかならず「おかえり」といって帰りを出迎えてくれる、日々のルーティンという存在がとっても頼れるのだ。
なんだか壮大なもののように語ってしまったけれど、ルーティンというのはそれだけいいものだし、取り入れるべきものだと感じている。説明したように、ルーティンはその「安定性」が肝だけれど、少しずつ形を変えてみたり工夫をしてみたり、その時の自分が一番受け入れやすい形で行うことも大切だと思う。なにより「続けること」が最優先だ。たとえば日記なんかも、1ページにぎっしり書く日もあれば、1行だけで終わらせる日があってもいいと思う。それも含めて、すべて「その日の自分」である。
この家ごもり期間、せっかく限られた環境で生活のリズムも安定しているので、続けてみたい習慣を身に付けるにはいい機会なんじゃないかと思う。いま習慣化の軸づくりをしておけば、そのうち解放されて外に出られるようになったとき、軸をスッと抜き取ってもそこに安定性が保たれているかもしれない。そのときにとっての「いつもの自分」は間違いなく、わたしがこの期間で生み出した「あたらしい自分」なのだ。