めがねをかけるのは「普通」
3年くらい前から、ずっと不安に感じていることがあった。
病気っていうわけではないけれど、「他人とは違う」症状に悩まされ続けている。それは、特定の状況にのみ起こる。普段は何ともないのに、どんなに「大丈夫、大丈夫」と心のなかで唱えていても、どうしても脳が反応してしまうらしい。意識すればするほど、緊張感が増していくからだ。症状が起きるとわたしは途端に恥ずかしくなって、「どうしてこうなってしまうんだろう」とひたすら落ち込む。
高校生のころに通っていた塾の映像授業で、スゴ腕の現代文の先生が言っていたことをいつも思い出す。
「人間だれしも、精神をコントロールすることはできない。なぜならば見えないからだ。精神を動かしたければ、身体を動かせ。そうすれば、精神が自然とついてくる」(たしかこの授業では、現代文の文章を脳内で整理するために読みながらペンを動かせ、という話をされていた気がする)
そうだった。精神を動かせないなら、身体を動かそう。ありがとう先生!
わたしは症状をなんとか抑えようと、反応してしまう脳みそをコントロールすべく、あらゆる身体の動きを試した。そうすればきっと、わたしの症状を抑えるための術が見つかるはず。
でも、それはなかなか難しかった。心の状態によっては「大丈夫」なときも増えたけど、切っても切り離せないことになってしまっていた。
そして症状が現れるようになってから約2年半後に、わたしはようやく病院へ行くことにした。わたしは元から身体が丈夫なほうで、自らの意志で病院に向かうことなんてほとんどなかったから、すごく緊張したのを覚えてる。
病院の先生は、少し怖い顔。そんなイメージが先行していたせいか、先生から言われたことはすべてがトゲのように感じて、次々と私に突き刺さった。
診断の結果、先生からはこう言われた。
「あなたの場合、病気じゃなくて、そういう性なんですよ」
・・・性(さが)。
性質っていうことか。「そんなことを言われても…」と内心モヤモヤしたけれど、「これを飲めば少しは変わる」と言われて渡された薬を手に病院を後にした。
それからは、いかにも症状が起こりそうな状況の直前にその薬を飲むようになった。そしたら不思議と大丈夫で、病院の先生にはひたすら感謝。多分、よく聞く「プラシーボ効果」というやつもあるんだと思う。
薬があるというだけで、わたしには安心感が生まれた。
でもその一方で、「薬を飲まなければ "普通" じゃなくなってしまう」という不安も抱えていた。「普通じゃない」というレッテルを自分に貼って生活するのは、とても息苦しい。
そしてついこの前、切れた薬をもらいに行くため、2回目の通院をした。
「もし、もう薬を渡してくれなかったらどうしよう・・・」
そんな不安が、少なからず存在した。
先生の前に座ると、先生は前回よりもニコニコした表情をしていた。あれ、思ったよりも優しそうな人だ。
先生は、引きつづき薬を処方してくれるといった。
そして、こう続けた。
「目の悪い人は、メガネをかけるでしょ。それと同じで、あなたは症状が現れたときに薬を飲むっていうだけなんですよ」
・・・そうか。
わたしはこれを聞いた瞬間、「なんだ、そういうことか」という気持ちになった。それまでモヤモヤしていた心が、とても軽くなっていくのを感じた。
目の悪い人はメガネをかけるし、足に障がいのある人は義足を履く。耳の悪いおばあちゃんは補聴器をつけるし、歯並びの悪い人は矯正器具を付けている。
わたしは、薬を飲む。それだけのことだった。
その日の帰り道はとてもルンルンで、なんだか道行く人みんなが「普通」に見えた。