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私、ペスカトリアン、豚を殺し、食す

地球温暖化や絶滅危惧種の現状に絶望し、燃え尽き症候群になっていた私は、3ヶ月の春休みをそっと過ごすことに決めた。ごたごたした生活から一歩身を引いて「命」について考える時間をつくりたかったからだ。

「動物を殺すとどんな感じがするのか確かめる事で、食肉に対する感謝の気持ちが生まれ、肉の消費に変化がでるのではないか」と少々弁解気味にツアーに参加した。

動物を殺すということについて、人々を考えさせようとして、正当化するのは簡単だ。私たち誰もが毎日、間接的ではあっても生き物を死なせている。食肉や原皮に対する不躾な反論をした挙句、平気な顔でパクパク肉を食べるような無神経な人間にはなりたくなかった。工場式畜産が人に与える影響が気になり、ペスカトリアン(肉は食べないが魚は食べる)を続けていた時期もあった。

肉を見たことがあっても死体を見る機会は少ない。ましてやそれを食べるなんて。
「1度も命を殺めた事がない子供は実に哀れだ」と。
残念ながら、私には解体も屠殺の経験もない。見ずに済むようにずっと守られてきたからだ。日本のコンビニは歩いて数メートル毎にあり、nanacoで数秒ピヨピヨしたら、均等に切り分けられ、どこを取っても同じ形、美味しい唐揚げが食べられる。誰もがパック入りの綺麗に加工された安い肉ばかり買い、何もかも無機質なプラスチックにこれでもかと言うほど丁寧に包装し、殺菌し、感情が入り込む隙などどこにもない。
"それ"がもとは、幸せや痛みを感じる"生き物"だったことなんて、誰もが忘れてしまっている。そして、工場で生まれ、工場で育った"当の本人たち"は口に入る時初めて、人間と接触するのだ。非現実的だ。誰も気にしないし、何も感じない。自分で手を下さないようにようになったせいで、何かを犠牲にしたような気がする。

マレーシア サラワク イバン族の入村の儀式
きらびやかな衣装を身にまとった若い娘と、伝統楽器の心地の良い不協和音とともに、イバン族入村の儀式が始まった。音も光も吸収していくようなジャングルは静かに私たちを試しているようだった。

村の男たちが布で覆いかぶされた生きた豚を担いで来た。ドサリッ..という地響きとともに、私たちの目の前に横たわる豚は恐怖に悲鳴をあげ、必死に彼らの手を解こうとしていた。
場違いだった。きちんとリサーチもしていなかったし、タイムスリップか、もしくは異空間に足を踏み入れてしまったと感じた。胸がドキドキし、脚は震え、呼吸に集中しなければならなかった。村の少女が神に捧げる花を横たわる豚の脇腹にばらまき、そして鋭く鈍く光る槍が豚の喉にあてがわれた。その場から今すぐにでも逃げ出したかった。「このために来たんだ」と自分に言い聞かせ無理にでも目を見開いた。涙で視界がぼやけ、胸がキュッとなった。
豚の金切り声が私の耳を劈いた。強烈だった。本能が刺激され、感覚が鋭くなる。空気から色が、肌から音が、視界から匂いが、あらゆる情報が五感を伝って飛び込んでくる。海老茶色の鮮血が勢いよく溢れ出し、瞬く間に橋全体に広がった。
動物の死体をこんな場所で見るのは珍しいからか、ある種絵画的に見えた。
動き回っていた体はもう微動だにしない。豚の魂が抜け出し、背後から私を見つめているようだった。イバン族は年に数回しか豚を食べない。私達のために捧げてくれたその命に感謝の気持ちを伝えたくて精一杯微笑もうとした。でも本当は一人になってわんわん泣きじゃくりたかった。隠れる場所に戻ってすぐに、今起きた事を何度も検証し、自分を正当化した。「今まで辛い真実を見ないように目隠しされていた子供だった、でも少なくとも私は思い切って外に飛び出し、今それに目を向けたじゃないか!」と、まさに大人になった気分だった。そして私は私がもった感情、思考、行為の全てを傲慢だと悟った。たとえ「命の大切さを知りたいから」という善意じみた考えであっても、何度考えを巡らせても、辿り着くのは自分への"おごり"そのものだった。

私は多くの命を重ねてきた
裸火で毛を燃やされ、豚はもう別の何かに、モノになっていた。どうしてあんな悪夢が一瞬で変わってしまうのか。私は本当にこんなにお腹が空いているのだろうか?自分のしたことに傷つき、どうしても自分がしたことの埋め合わせをしたかった。油とススでギラギラした肉は1つの形として目の前に現れ、私の中へ消えていった。それは美味しかったけれど、あまりたくさんは食べたくなかった。

「トリドン」とはゲール語で”変化の場所”という意味。私の思考のパターンは確かに変化しつつあり、それは心も同じだった。
夜、蛍を追いかけながらロングハウスの外を裸足で歩いていた。この美しく恐ろしい命のひしめき合うジャングルの一部になったように、私は呼吸を合わせながら無我夢中でその日の出来事を考え、まとめようとした。さっきよりマシな気分だった、が本当にそう感じてしまっていいのか。
草わらをかき分けるとき一瞬躊躇した。(中に足を踏み入れたら棘が刺さるかもしれない…。)そして自分を呪った。動物を苦しめることに比べれば些細な痛みじゃないか。気づいたら目の前には儀式を行った橋があった。きらきらとか細く丁寧に点滅するホタルとは対照的に夜より暗い血のあとが、色あせた木の橋に染み込んでいた。犬の足跡もべたりとついている。長い、濃いストーリーが、私の食べた小さな一つの肉片に詰まっていたのだ。その場でひどく浮いていた私に「森にいてはいけないよ」と古木の声が聞こえた気がした。私はなんて弱く脆い生き物なんだ。

生き物を潰すことは自分をその瞬間に深く浸らせることができる。
作業の間、そこには動作が、笑いが、血が、会話が、沈黙が、生が、死が、あふれていた。肉を食べることで、実際に自分も生と死の循環の一部だと実感できるのだ。食のタブー。馬肉スキャンダルや日本の捕鯨がニュースになってよかった。そうすることで人に考える時間が生まれる。

なぜ私はそんなに命に関心を持ったのか?きっと自然に囲まれて暮らすことに慣れているから、大地や、生死と密接に関わる生活と繋がりたかったんだと思う。自分の人生に、選択に、食に折り合いをつけようと。これは私たちの世代の特質だろう。みんなな何かに飢えている。必ずしも豚でなくていい。儀式を、自分が食べている家畜に感謝する、スピリチュアルな何かを。

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