企業が成長し続けるためには何が必要なのか。この問いに対して、経営学の世界ではさまざまな答えが提示されてきた。資本、技術、人材など多くの要素が重要であることは言うまでもないが、日本の経営学者である野中郁次郎は、企業の競争力の本質は「知識」にあると考えた。そしてこの考え方を体系的にまとめたのが、The Knowledge-Creating Company(邦題:知識創造企業)という書籍である。
この本で示されている最も重要な考え方は、企業は知識を生み出すことでイノベーションを起こす組織であるという点である。つまり、新しい商品やサービス、新しい事業というものは、突如として生まれるわけではなく、人々の経験やアイデア、議論などを通じて知識が積み重なり、それが形になった結果として生まれるという考え方である。
ここで重要になるのが、「知識には二つの種類がある」という視点である。
一つは「暗黙知」と呼ばれる知識である。これは、言葉で説明しにくい知識のことを指す。例えば、熟練した営業担当者が顧客の反応から商談の流れを読む感覚や、職人が手の感覚で製品の品質を判断する能力などがこれにあたる。これらは経験の中で身につくものであり、マニュアルとして書き起こすことが難しい。
もう一つは「形式知」である。こちらは文章や図、データなどの形で整理された知識である。業務マニュアル、設計書、戦略資料、研究論文などがその典型例である。形式知は共有しやすく、組織の中で広く活用されることができる。
野中の理論では、イノベーションはこの二つの知識が互いに変換されながら循環することで生まれると考えられている。この循環プロセスは「SECIモデル」と呼ばれる。少し難しい名前だが、意味はそれほど複雑ではない。
まず、経験や対話を通じて人から人へ暗黙知が伝わるプロセスがある。例えば、ベテラン社員が若手に仕事を教える場面などがこれにあたる。これを「共同化」と呼ぶ。
次に、言葉にしにくかった知識が、議論や思考を通じて言語化される段階がある。例えば、「この商品はなぜ売れているのか」「顧客は何を求めているのか」といった問いを通じて、経験がコンセプトとして整理される。この段階は「表出化」と呼ばれる。
さらに、こうして整理された知識が他の知識と組み合わされ、新しい戦略や仕組みとして体系化される段階がある。市場データや技術情報、顧客理解などを組み合わせて新しい事業構想を作るようなプロセスである。これは「連結化」と呼ばれる。
最後に、その知識が実際の行動や実践の中で使われ、人々の経験として蓄積される。新しい事業を実際に立ち上げ、現場で試行錯誤することで知識が体得される。この段階は「内面化」と呼ばれる。
この四つのプロセスが循環することで、組織は新しい知識を生み出し続けることができる。そしてこの知識の循環こそが、企業のイノベーションの源泉であると考えられている。
この理論を踏まえてキャリアを振り返ると、一つの興味深い特徴が見えてくる。それは、キャリアの各段階が、この知識創造のプロセスの異なる側面と深く関係しているという点である。
キャリアの初期段階では、ITコンサルタントとして大企業のプロジェクトに関わる経験を積んだ。ここでは、企業の業務プロセスや組織の仕組みを理解し、それを整理していく仕事が中心となる。企業の現場には多くの暗黙知が存在している。どの業務がどのように行われているのか、どこに課題があるのか、どのような意思決定が行われているのか。これらは必ずしも文書化されているわけではない。そのため、プロジェクトを進める中で現場の知識を整理し、構造化し、共有できる形にすることが重要になる。これはまさに、暗黙知を形式知に変換するプロセスである。
その後のキャリアでは、新規事業やイノベーションのコンサルティングに携わるようになった。ここでは、企業の中に存在する知識を整理するだけでなく、新しい事業を生み出すための仕組みを設計する役割を担う。例えば、新規事業戦略を立てたり、社内で新しい事業を生み出す制度を設計したり、事業アイデアを検討するプロジェクトを推進したりする。これは、既存の知識を組み合わせ、新しい事業のコンセプトとして体系化するプロセスである。知識創造企業の理論で言えば、これは「連結化」に近い活動である。
そして現在の役割では、企業とスタートアップを結びつける活動に携わっている。ここでは、企業が持つ事業課題や産業知識と、スタートアップが持つ技術やビジネスモデルを組み合わせることで、新しい事業機会を生み出すことを目指している。企業とスタートアップは、それぞれ異なる知識を持っている。企業には市場や顧客に関する深い理解があり、スタートアップには新しい技術やアイデアがある。この二つが出会うことで、これまでになかった可能性が生まれる。このような活動は、異なる組織の暗黙知を結びつけるプロセスであり、知識創造企業の理論で言う「共同化」に近い。
さらに、この理論では「場(Ba)」という概念も重要とされている。場とは、知識が生まれる環境のことである。人々が集まり、議論し、経験を共有することで新しいアイデアが生まれる。そのような環境を作ることが、知識創造の重要な条件になる。
企業とスタートアップが出会うアクセラレーターやオープンイノベーションのプログラムは、まさにこの「場」を作る活動と言える。企業の担当者、スタートアップの起業家、投資家、研究者などが集まり、議論し、共同プロジェクトを進めることで、新しい知識やアイデアが生まれる。こうした場を設計し、運営することは、知識創造の観点から見ても非常に重要な役割である。
このようにキャリアを知識創造企業の理論の視点から整理すると、一つの共通したテーマが見えてくる。それは「知識をつなぐ」という役割である。企業の内部には豊富な知識が存在するが、それが必ずしも新しい事業につながるとは限らない。一方で、スタートアップには革新的な技術やアイデアがあるが、それだけで大きな事業になるわけではない。両者の知識が結びついたときに、初めて新しい価値が生まれる。
このような役割を担う人材は、知識創造企業の理論では「Knowledge Activist」と呼ばれている。Knowledge Activistとは、組織の中で知識創造を促進する触媒のような存在であり、異なる知識を持つ人々を結びつけることで新しい知識を生み出す役割を担う。
これまでの経験を振り返ると、大企業の業務や組織の知識を整理する仕事、新規事業の仕組みやプロセスを設計する仕事、そして企業とスタートアップの連携に関わる仕事など、さまざまな立場から事業創出のプロセスに関わる機会があった。結果として、企業の内部にある知識と外部の知識がどのように結びつき、新しい事業の可能性につながっていくのかを、実務の中で少しずつ学んできたように思う。
まだまだ勉強することは多いが、これまでの経験を活かしながら、自分なりに世の中の役に立てる部分で精一杯取り組んでいきたい。企業の中にある知識や経験、そして新しい技術やアイデアがうまく結びつき、新しい価値が生まれていく。そのプロセスに少しでも関わりながら、事業や社会の前進に貢献していければと思っている。