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パーパスが人の思想を変えるという嘘

Photo by Stefano Pollio on Unsplash

パーパス経営とかデザイン経営とかって言葉が躍って自分たちの事業の意義を言語化して再定義する流れがあり、自分たちも例に漏れず会社で理念をイチから作ったりもしたわけなのですが、実際に理念をイチからつくってみて、それを掲げて、カルチャーに変えていって、という一連の体験を経て気付いたところがあるので改めてまとめてみようと思います。

もともと、自分自身は会社の理念を作ったら全員がその理念に共感をして、その理念に基づいて行動するようになるものなのだと思っていました。実際に、弊社ではMission=存在意義、Vision=理想像、Values=価値観、として、更にそれに紐づく行動規範まで文字やイラストで明確に定義していて、バラバラの思想を持った個々人がこの理念によって方向づけされ、同じような思想を持った人たちが集まってカルチャーが生まれる、という感じです。結論的には、これがまず完全に誤りだったなと思っています。そんな気持ちはもちろん全くなかったですし、弊社ではおそらくこの理念に共感してメンバーが同じ方向を見てくれるようになっていて今の状況に問題はないのですが、改めて考えてみると人の思想をコントロールするような非常に傲慢な考えだったのではないかと反省しています。

理念とかパーパスとかができると、まるでそれが会社の中での唯一無二の正義のように思えてしまうんですよね。それでは人の行動を自由にコントロールすることができるということを前提としたマネジメント的な概念がただ思想にピボットしただけなんじゃないかと思うわけです。たぶん理念とかパーパスを掲げることって、そういう排他的なプロパガンダのようなもので決してないはずですよね。

実際に理念をみんなで作って掲げた一年間を振り返って思うのは、理念はあくまでも理念でしかなく、思想ではないということです。人にはそれぞれ個別の人生という歴史に基づく思想があって、それを根本的に変えたりすることなんてできませんし、理念が個人の思想を侵害することはあってはならないと思っています。理念が何のためにあるかと言えば、一義的には自分たちの存在意義を明確にするためかもしれないけど、その次にはそこで人生を過ごす人たちの幸福度を最大化することに意義があるはずで、思想を押し付けるものではないはずです。人には、必ず思想の奥底に良心があるはずです。理念が果たす役割は、人それぞれが持っている思想の中の無意識下にある良心と照らし合わせて、それを意識化に引っ張ってくることなんじゃないかなと思います。

だから結局は、理念やパーパスなんて言うのはとりすました貴族のようなものであって、人の思想を変えたり、それに基づく行動変容を強制するようなものではないんじゃないでしょうか。つまりは理念やパーパスを正義としてそれにそぐわないものを淘汰していくのではなく、まずは相手のことを一人の人間として尊重して、誰の思想も否定しないことからはじめないと、理念とかパーパスなんて絵に描いた餅なんじゃないかなと思うわけです。どんな思想で生きるのかは人それぞれ自由ですし、その思想と共感するところで生きていくのがその人にとっては幸せですからね。パーパスや理念が目指すところの自律分散型みたいなものも、最終的には人の思想を尊重して良心を信じるところからはじめないといけないんじゃないかなと思ってます。良心にしたがって自らの意志で幸せな人生をつかむのは、本人にしかできませんからね。

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