みなさん、こんにちは。今日は少し変わった授業をします。テーマは「日本という国の健康診断」です。
健康診断は受けたことがありますよね。身長、体重、視力、血液検査。自分の体がいまどんな状態か、数字で教えてもらえる仕組みです。実は、国にも同じことができます。世界中の研究機関が、いろいろな国について、ものすごくたくさんの数字を集めているからです。
今日の授業で使うのは、「World Effect Benchmark」というデータ集です。中身は、日本を含む先進国37カ国について、1,193種類もの数字を集めたもの。どんな数字があるかというと、平均寿命や物価みたいな定番のものから、「その国の人は昨日笑ったか」「昨日、何かを学んだ気がしたか」なんていうものまであります。国の健康診断は、人間の健康診断よりずっとおせっかいなのです。
この授業のゴールは3つあります。
1つめ。この37カ国×1,193項目のデータを使って、「国が成長すること」と「国民が幸せであること」の関係を調べます。すると、大人たちが長年信じてきた「常識」がいくつも、実はまちがいだったことがわかります。
2つめ。データにだまされない方法を学びます。これは受験にも、就職にも、大人になってニュースを見るときにも、一生使える技術です。むしろ今日の授業でいちばん大事なのはこっちかもしれません。
3つめ。最後に、このデータが「いまの日本に何がたりないか」について何を語っているかを見ます。ネタバレすると、結論はこうです。「日本は病気ではない。ただ、椅子から立ち上がらない習慣がついているだけ」。どういう意味かは、授業が進むとわかります。
授業の進め方を先に案内しておきます。前半(1〜4時間目)は道具の時間です。相関、黒幕、化粧の落とし方という、データを読むための道具を手に入れます。中盤(5〜11時間目)は発見の時間。死んだ常識、世界の国々の素顔、そして今回の分析の最大の発見を見ていきます。後半(12〜16時間目)は、少し背伸びした議論と、みなさん自身の話。最後に、この授業そのものを疑う時間で締めます。長い授業ですが、途中に休み時間がわりの雑談も挟みますから、安心してついてきてください。
ひとつだけ約束してほしいことがあります。この授業に出てくる数字を、丸暗記しないでください。テストに出しません。覚えてほしいのは数字ではなく、「数字の疑い方」です。それさえ持ち帰ってもらえれば、この授業の中身を全部忘れても、授業は成功です。
それでは、1時間目を始めましょう。
◆◆ 第1時間目 国の健康診断ってなに? ◆◆
まず、材料になっているデータをちゃんと説明します。
対象は37カ国。「OECD」という、いわば先進国のクラブに入っている国たちです。日本、アメリカ、ドイツ、フランス、韓国、メキシコ、アイスランド……。世界には200近い国がありますが、正確な統計がそろっているのはこの37カ国くらい、と考えてください。
この37カ国それぞれについて、2つの「成績」を用意します。
1つは経済の成績、つまりGDP成長率です。GDPというのは、その国で1年間に生み出されたモノやサービスの合計金額のこと。国の「稼ぐ力」だと思ってください。このデータでは1999年から2019年までの約20年間、1年あたり平均でどれくらい伸びたかを使います。
もう1つは幸福の成績です。これは2020年から2023年にかけて、各国の人たちに「昨日、楽しいと感じましたか」「昨日、笑いましたか」といった質問をして、前向きな気持ちの割合を測ったものです。「幸せかどうかなんて数字にできるの?」と思うかもしれません。もっともな疑問です。完璧にはできません。でも、何万人にも同じ質問をして国ごとに平均すると、国と国の違いはちゃんと見えてきます。体温計が完璧でなくても熱があるかはわかる、というのと同じです。
そして本題の1,193種類の項目。教育、健康、お金、働き方、文化、性格、政治……国について測れるものはほぼ全部入っています。この1,193個それぞれについて、「この項目は、成長の成績と関係があるか?」「幸福の成績と関係があるか?」を調べていくのが、今日の授業の作戦です。
ここで、日本の診断結果を先にお見せしましょう。
日本の平均寿命は84.0歳で、37カ国中1位です。世界一の長生き国家。病院のベッド数や、CTスキャナという検査機械の数も世界トップクラス。薬剤師さんの人数もほぼ世界一です。つまり日本は、「死なないこと」については世界チャンピオンなのです。
ところが。成長率は37カ国中、下から4番目。幸福度は下から11番目です。
世界一の病院設備の中で、世界一長生きしながら、あまり成長せず、あまり笑っていない。そしてもうひとつ、国の借金(政府の借金がGDPの何倍あるか)も世界で突出して1位です。世界一長生きで、世界一借金がある国。それが、データに映った日本の姿です。
ところで、「そもそもこんなデータ、だれがどうやって集めているの?」と思った人はいませんか。いい疑問なので説明しておきます。出どころは大きく3種類あります。1つめは各国の政府統計。GDPや医療費のような「お金と数の記録」です。2つめは国際機関の調査。たとえばPISA(ピザ)という調査では、世界中の15歳が同じ問題を解き、同じアンケートに答えます。今日の後半に出てくる大事な数字も、このPISAから来ています。3つめは世論調査。調査員が各国で何千人にも電話や面会で「昨日笑いましたか」と聞いて回るのです。世界のどこかに、毎日「昨日笑いましたか」と尋ね続けている人たちがいる。そう思うと、統計という仕事が少し愛おしくなりませんか。
もちろん、どの数字にも誤差があります。国によって質問の翻訳が微妙に違ったり、正直に答えない人がいたり。だから今日の授業では、1つの数字に頼らず、たくさんの数字の「向きがそろっているか」を見ていきます。1本の矢は折れても、束はなかなか折れません。
「なんだか暗い話だな」と思いましたか? 大丈夫。この授業の結論は暗くありません。ただしそこにたどり着くには、まず「データの読み方」を学ぶ必要があります。
◆◆ 第2時間目 相関ってなに?――アイスクリームと熱中症 ◆◆
今日の授業でいちばん大事な道具を紹介します。「相関(そうかん)」です。
相関とは、「2つの数字が、いっしょに動く度合い」のことです。たとえば、アイスクリームの売上と、熱中症で運ばれる人の数。アイスが売れる日は熱中症も多い。アイスが売れない日は熱中症も少ない。この2つは「いっしょに動く」ので、相関がある、といいます。
相関の強さは「相関係数」という数字で表します。記号は r。値は−1から+1までです。
・rが+1に近い……片方が大きいとき、もう片方も大きい(同じ向きに動く)
・rが−1に近い……片方が大きいとき、もう片方は小さい(逆向きに動く)
・rが0に近い……関係がない(バラバラに動く)
だいたいの目安として、0.2を超えたら「関係がありそう」、0.5を超えたら「けっこうはっきり関係している」と読んでください。
さて、ここからが本当に大事なところです。声を大にして言います。
相関があることと、原因であることは、別ものです。
アイスクリームの例に戻りましょう。アイスの売上と熱中症には強い相関があります。では、アイスを食べると熱中症になるのでしょうか? ちがいますよね。本当の犯人は「気温」です。暑い日は、アイスも売れるし、熱中症も増える。アイスと熱中症は、どちらも「暑さ」の結果であって、お互いは何の関係もない。
このとき、影で糸を引いている「気温」のような存在を、統計の言葉で「交絡因子(こうらくいんし)」と呼びます。かっこよく言えば「隠れた黒幕」です。
もうひとつ、学校っぽい例を出しましょう。「朝ごはんを食べる子は成績がいい」という調査結果、聞いたことありませんか? これも相関です。でも「朝ごはんを食べれば成績が上がる」とは限りません。朝ごはんがきちんと出てくる家庭は、生活リズムが整っていたり、勉強を見てくれる大人がいたりするかもしれない。黒幕は朝ごはんではなく「家庭環境」かもしれないのです。
練習問題を2つ出します。ニュースでこんな見出しを見たとしましょう。
「読書量の多い子どもほど、年収の高い大人になる」
さあ、黒幕の候補を考えてみてください。……たとえば「親の年収」はどうでしょう。本をたくさん買ってもらえる家庭は、教育にお金をかけられる家庭かもしれません。読書が年収を上げたのか、家庭環境が読書量と将来の年収の両方を押し上げたのか、この見出しだけでは区別がつきません。
もう1問。「朝練をしている部活ほど、大会の成績がいい」。黒幕の候補は? ……「そもそも強い部活ほど、朝練をやる気になる」という逆向きの矢印もありえますよね。原因と結果が逆かもしれない、という疑い方も大切です。
どうでしょう、コツがつかめてきましたか。強い相関を見たら、反射的に3つ疑う。「黒幕がいないか?」「矢印が逆ではないか?」「ただの偶然ではないか?」。今日の授業は、この3つの疑いを、国レベルのデータで本気でやります。そしてこの区別ができるようになると、世の中のニュースや広告の半分くらいは「おや、あやしいぞ」と見抜けるようになります。
ちなみに、相関係数という道具にも弱点があります。rは「直線的な関係」しか測れませんし、外れ値(1つだけ極端な値)に引っぱられやすい。だからあとで出てくる分析では、数値を順位に置きかえて測り直す、というダブルチェックもしています。道具の弱点を知ったうえで道具を使う。これも科学の基本です。
◆◆ 第3時間目 データは化粧をしている――キャッチアップ効果という黒幕 ◆◆
国のデータには、とびきり大物の黒幕がいます。その名は「キャッチアップ効果」。今日はこの黒幕の正体を先に押さえておきます。
質問です。中学1年生と高校3年生、これから1年間で身長がより伸びるのはどちらでしょう?
ほぼ確実に中学1年生ですよね。すでに伸びきった人より、これから伸びる人のほうが「伸びしろ」が大きい。当たり前です。
実は、国の経済もまったく同じなのです。すでに豊かになった国(アメリカ、ドイツ、日本など)は、成長のスピードがゆっくりになります。一方、あとから追いかけている国は、先輩たちの技術ややり方をまねできるぶん、速く成長できる。これがキャッチアップ効果です。「あとから来た国ほど速く走れる」。
マラソンでたとえてもいいでしょう。先頭集団はもう全力に近いので、ペースはほとんど上がりません。後ろの集団は、前を走る人のペース配分や給水のコツを見て学べるぶん、区間タイムを一気に縮められる。だから「いま区間タイムがいちばん速いのはだれか」を見ても、「いちばん強い走者」はわからないのです。速く見えるのは、後ろから追いついている最中の走者。国の成長率も、これとまったく同じ性質を持っています。
この黒幕がなぜ厄介かというと、ありとあらゆる相関に「化粧」をほどこしてしまうからです。
たとえば、データの中にこんな相関があります。「平均寿命が長い国ほど、経済成長率が低い」。相関係数は−0.59。かなりはっきりした逆相関です。これを見ると、「長生きは経済の足を引っぱるのか……高齢化こわい……」と思いたくなりますよね。実際、大人の世界ではそういう解説をよく見かけます。
でも、ちょっと待ってください。寿命が長い国って、どんな国でしょう。医療が整った、豊かな国ですよね。そして豊かな国は、高3の身長と同じで、伸びしろが小さい。つまり、
寿命が長い ← 豊かだから
成長が遅い ← 豊かだから(伸びしろが小さいから)
この2つは、どちらも「豊かさ」の結果にすぎないかもしれない。アイスと熱中症の関係と同じ構図です。
じゃあ、どうやって確かめるのか? 次の時間で、黒幕の化粧を落とす方法を学びます。
◆◆ 第4時間目 化粧の落とし方――「もし豊かさが同じだったら」を計算する ◆◆
黒幕の影響を取りのぞく方法は、考え方だけならシンプルです。「条件をそろえて比べる」のです。
身長の例で言えば、「中1と高3を混ぜて比べる」からおかしくなるのであって、「中1どうし」「高3どうし」で比べれば、伸びしろの差は消えます。国も同じで、「同じくらい豊かな国どうしだったら、この関係はまだ残るか?」を計算すればいい。
統計学には、これを数学的にやる「偏相関(へんそうかん)」という道具があります。くわしい計算式は大学で習いますが、意味は「黒幕の影響を数学的に差し引いたあとの、純粋な相関」です。お化粧を落としたあとの素顔、と考えてください。
今回の分析では、黒幕候補を5つ選んで、まとめて化粧を落としました。
1つめは、さっきの「豊かさ」(1人あたりGDP)。最大の黒幕です。
2つめは、「旧共産圏かどうか」。東ヨーロッパの国々は、昔の体制から切り替わったあと猛スピードで追い上げている最中なので、特別あつかいが必要です。ちなみに「〜かどうか」という項目は、当てはまるなら1、当てはまらないなら0、という数字に直して計算に入れます。これを「ダミー変数」と呼びます。文化や地域のような「数字じゃないもの」も、こうすれば計算に混ぜられるのです。ちょっとした発明でしょう?
3つめは、「ラテンアメリカかどうか」。メキシコなどの中南米の国の人たちは、統計を取るとなぜかいつも陽気です。文化として「幸せ」と答えやすい傾向があるのです。
4つめは、「北欧かどうか」。デンマークなどの北欧諸国は、何を測っても制度が立派に出る優等生なので、これも特別あつかい。
5つめは、「高齢化の度合い」。人口にしめる働き盛りの割合です。
さらに、化粧落としのあとに「いじわるテスト」を3つ追加しました。
いじわる1。37カ国から1カ国ずつ抜いて、37回計算をやり直します。もしある相関が「イスラエルを抜いたとたんに消える」なら、それは世界の法則ではなくてイスラエルの個性です。抜いても抜いても残る相関だけを信用します。
いじわる2。数字を順位に置きかえても同じ関係が出るかを確かめます。極端な1カ国に引っぱられた「見せかけ」を防ぐためです。
いじわる3。同じことを測っている兄弟みたいな項目(たとえば「訓練を受けた人の割合」は職種別に何種類もあります)が、全員同じ方向を指しているかを確認します。1個だけ騒いでいる数字は信用しません。
ここまでやっても、「因果の証明」にはなりません。これは正直に言っておきます。証明には実験が必要ですが、国を2つに分けて片方だけ制度を変える実験なんてできませんから。でも、化粧を落とし、いじわるに耐え、それでも残った関係は、「原因である可能性がかなり高い候補」と言えます。今日の授業で「〜に効く」という言い方をしたら、正確には全部「効いている可能性が高い候補」だと思って聞いてください。
最後にもうひとつ、「時間の矢」という強力な味方を紹介しておきます。
原因は、結果より先に起きていなければなりません。当たり前ですが、これが使えるのです。今回のデータでは、幸福度は2020〜2023年に測られています。一方、1,193個の項目の多くは2010年代に測られたものです。ということは、「幸福だから訓練が増えた」という逆向きの矢印は、時間的にかなり苦しい。訓練のデータのほうが先に存在しているからです。タイムマシンがない限り、結果は原因より先に起きられません。相関の向きに迷ったら、まずカレンダーを見る。覚えておいて損はありません。
もうひとつ、「用量反応」という考え方も紹介します。薬が本当に効くなら、少し飲めば少し効き、たくさん飲めばもっと効くはずです。国のデータでも同じで、本物の関係なら、項目の値が高い国ほど段階的に結果も高くなるはずです。1位と最下位だけが極端で、あいだがバラバラなら、それはあやしい。今回の分析では、この「段階的かどうか」も順位のデータで確認しています。
道具はそろいました。整理すると、今日の分析は6段階の検査になっています。①相関を測る。②5つの黒幕の化粧を落とす。③1カ国ずつ抜く意地悪テストを37回。④順位に置きかえてもう一度。⑤兄弟指標の点呼。⑥時間の矢の確認。ここまで生き残った関係だけを、「原因の有力候補」と呼ぶことにします。
いよいよ、結果を見ていきましょう。
◆◆ 第5時間目 死んだ「常識」たち――化粧を落としたら消えた相関 ◆◆
化粧を落とすと、大人たちが信じてきた「常識」が、面白いように消えていきました。お葬式の順に紹介します。
まず、さっきの「長寿は経済の敵」説。素の相関は−0.59でしたが、化粧を落とすと−0.12。ほぼゼロになりました。やはり黒幕は豊かさでした。長生きそのものは、経済成長の足を引っぱっていません。日本は世界一の長寿国ですが、それを低成長の言い訳には使えない、ということです。
次に、もっと劇的なもの。素のデータでは「高血圧の人が多い国ほど成長している」という相関がありました。+0.65。かなり強い相関です。「体を壊すほど働く国こそ伸びるのだ」という、ちょっとこわい物語が見えてきそうですよね。
化粧を落とした結果は、−0.01。完全にゼロです。
からくりはこうです。急成長中の追い上げ国は、生活が激変している最中なので、血圧も高くなりがち。成長と高血圧は、どちらも「追い上げ中」という同じ原因の結果でした。アイスと熱中症です。「無理して働くから成長する」という物語は、データの上では幻でした。
「物価が上がる国は成長する」(+0.52)も、化粧落としでほぼ消えました(+0.06)。「観光が盛んな国は成長しない」も大部分が消えました。おもしろいことに、観光のほうは逆の発見がありました。観光の強さは、化粧を落とすと「国民の幸福」と+0.52でつながっていたのです。考えてみれば、旅行者に見せたい国とは、住んでいる人の機嫌がいい国のことですからね。
最後に、教材として最高の1つを紹介します。素のデータには「HIVの新規感染者数が多い国ほど、成長率も幸福度も高い」という相関がありました。……そんなわけ、ないですよね。これは、測っている国が21カ国と少ないうえに、黒幕がからみあって生まれた、完全な偶然です。
ここに大事な教訓があります。1,193個も項目があると、サイコロを1,193回ふるのと同じで、偶然の「ありえない相関」が必ずいくつか混ざるのです。クラスで実験してみるとわかります。40人の誕生日と、40人の靴のサイズと、40人の数学の点数と……と何百個も項目を集めて総当たりで相関を計算したら、「誕生月が早い人ほど視力が悪い」みたいな、もっともらしくて無意味な相関が何個か必ず出てきます。データ分析の仕事は、出てきた偶然に大騒ぎすることではなく、「偶然はこれくらい混ざるはずだ」とあらかじめ見積もっておくことです。覚えておいてください。「データによると」で始まる話は、この見積もりをしていない場合、けっこうあやしいのです。
この時間の話を一枚の絵にすると、こうなります。国際比較の「常識」の多くは、素の相関という化粧をした顔でした。化粧を落とすと、消える顔がある。変わらない顔がある。そして――ここからが次の時間以降のお楽しみですが――化粧の下から、誰も見たことのない素顔が現れることもあるのです。統計学者はこれを「抑制効果」と呼びますが、今日の授業では「水面下の氷山」と呼ぶことにしましょう。素の相関がゼロに見えるのに、黒幕を取りのぞくと強い関係が現れる。つまり、2つの力がちょうど打ち消し合って、見えなくなっていたパターンです。今日の最大の発見は、この氷山の中から出てきます。

(キャプション:図2 幻影博物館 — 5変数統制で「常識」は消滅し、教育・転職が水面下から浮上した。)
◆◆ 第6時間目 世界の教室――37カ国を生徒にたとえると ◆◆
化粧を落とす前に、登場する国たちのキャラクターを見ておきましょう。37カ国を1つの教室だと思ってください。国の個性は、平均点よりも「何が突出しているか」に表れます。

(キャプション:図1 三十七人の患者たち — 成長×幸福の待合室。点は1か国、破線は中央値。日本(赤)は左下の「中庸の成熟」ゾーン。)
まず、リトアニア。バルト三国のひとつで、成長率はクラス1位です。ところが幸福度は下から2番目。この子の内訳を見ると、結核の死亡率や高齢者の施設入所率が高く、そして「余暇を大事にする」「敬意を感じた」「礼儀正しさ」がクラス最下位圏。テストは学年トップなのに、いつも余裕がなくて、あいさつを返す元気もない。そんな感じの生徒です。急いで追い上げている国の典型です。
韓国。特許の数はほぼ世界一。造船や環境技術の発明も突出しています。でも幸福度は下から3番目。会社の中の研修や、女性の管理職の割合は最下位圏です。「発明はすごいのに、笑っていない」。日本にとって、これは他人ごとに見えて、鏡に映った親戚みたいな存在です。
イスラエル。ベンチャー企業への投資額は世界一。研究開発費の割合も断然の世界一。つまり「イノベーション」の champion です。それで幸福度は? 37カ国中、最下位です。「昨日笑った」がクラス最低レベルで、「悲しみ」が最高レベル。世界でいちばん起業する国は、世界でいちばん笑わない国でした。
反対側には、陽気な生徒たちがいます。メキシコ。幸福度はほぼクラス1位。ところが内訳を見ると、糖尿病の死亡率が世界一、治安の統計も自由や民主主義の指標もかなり悪い。それでも幸せ。統計学はメキシコの前でちょっと黙りこみます。コスタリカも幸福度上位です。この国は軍隊を廃止して、そのぶんのお金を教育に回した国で、教育への公的支出の割合が世界一。「武器を捨てて教科書を買った国が幸福上位にいる」――因果の証明にはなりませんが、心に残る事実です。
アイスランド。幸福度1位。1人あたりの水資源、再生可能エネルギー、世界遺産の密度が突出しています。国民が温泉につかっている国が世界一幸せ。日本も温泉なら負けていないはずなのですが、違いはたぶん「つかっている時間」です。
アメリカはどうでしょう。成長も幸福もそこそこ上位の優等生に見えますが、突出項目がすごい。違法薬物による死亡と覚せい剤の使用率が世界トップ級。その一方で、勤続年数、年間休暇日数、最低賃金、「自分の町に愛着がある」がいずれも最下位圏です。世界一豊かで、世界一根なし草。実はアメリカは、「動きすぎる社会」の副作用を一手に引き受けてくれている国でもあります。あとで「日本は動かなすぎる」という話をしますが、その対極の実験結果がアメリカです。ちょうどいい回転数は、たぶん両者のあいだのどこかにあります。
スイスは、外貨準備と金(ゴールド)の保有量が突出した「世界の金庫」で、幸福度も上位。派手ではないけれど、蓄えのある安心が漂う生徒です。
成長最下位組も見ておきましょう。イタリアとギリシャです。どちらも歴史と観光の大国で、成長率はクラスのビリ争い。ただし6時間目の初めに言ったとおり、この2国は「先に豊かになった組」なので、伸びしろが小さいのはある程度当然です。そして観光の強さは、あとで見るように幸福の味方でした。急がない国には、急がない国の持ち味があるのです。成績表の1教科だけを見て生徒を評価してはいけない、というのは、国にも言えることです。
そして日本。突出しているのは、入院日数の長さ、CTスキャナの数、薬剤師の数、国の借金、仏教徒の割合、そして(データベースの気まぐれで測られていた)推し活の熱量。逆にクラス最下位圏なのが2つ。1つはあとで詳しく話す「自己効力感」。もう1つは、大人どうしの親密さの頻度です。
静かに世界一長生きして、推しには全力で熱狂して、でも自分の人生については自信がない。それが、教室の中の日本という生徒です。この3点セット、最後の時間にもう一度出てきますから、覚えておいてください。
◆◆ 第7時間目 四つの窓――1,193個の項目を仕分ける ◆◆
ここで、1,193個の項目を大きく整理します。それぞれの項目を、「成長に効くか」「幸福に効くか」で4つの窓に仕分けするのです。
窓1「両取り」。成長にも幸福にもプラスの項目。
窓2「成長優先」。成長にはプラスだけど、幸福にはマイナスの項目。
窓3「幸福優先」。幸福にはプラスだけど、成長にはマイナスの項目。
窓4「共倒れ」。両方にマイナスの項目。
それぞれの窓の住人を、少しのぞいてみましょう。「成長優先」の窓には、勤勉さ、高収入への強いこだわり、男性の喫煙率などが住んでいます。昭和の猛烈サラリーマンの部屋、という趣です。「幸福優先」の窓には、人生を楽しむ価値観、仕事の面白さ、結婚の形にこだわらない文化などが住んでいます。そして「共倒れ」の窓の住人には、共通点があります。政府の借金、不安、悲しみ、軍備、水不足。ぜんぶ「重さ」なのです。借金の重さ、気分の重さ、武器の重さ、渇きの重さ。国をだめにするのは悪意ではなく重量である──この窓の教訓は、個人の人生にもそのまま使える気がします。

(キャプション:図3 四つの窓 — 1,192因子の住民台帳。両取りの一等地SUCCESSは25因子のみ。)
仕分けの結果(まずは化粧を落とす前の素のデータ)は、こうなりました。
両取り:25個。成長優先:67個。幸福優先:141個。共倒れ:22個。そして、どの窓にも入らない「どちらにもほぼ無関係」が937個。
この数字だけで、3つのことがわかります。
第一に、世の中の項目の約8割(937個)は、国の成長とも幸福とも、ほぼ関係がありません。ニュースは毎日いろんな指標で大騒ぎしますが、その多くは実は「郊外の住人」なのです。
第二に、「両取り」の窓は25個しかありません。成長と幸福の両方に効くものは、めったにない。しかもその25個の顔ぶれが渋いんです。自然の豊かさ、働く人の熱意、道路の長さ、教育への公的支出、女性管理職の割合、来年への楽観。AIも金融もイノベーションも入っていません。国にとって本当に「おいしい」ものは、驚くほど地味なのです。
第三に、「幸福優先」(141個)は「成長優先」(67個)の約2倍です。世界のデータをそのまま読むと、「幸福に効くものは、成長とケンカしがち」に見える。実際、1,192個の項目全体で「成長との相関」と「幸福との相関」を突き合わせると、−0.35。成長に効くものほど幸福に効きにくいという、綱引きの構図が全体を貫いています。
「やっぱり、成長と幸福は両立しないんだ……」と思いましたか?
ところが。この綱引き、化粧を落とすと大部分がほどけるのです。追い上げ中の国は、成長は速いし、余裕がないから幸福度は低い。例の黒幕・キャッチアップ効果が、ここでも「成長と幸福は両立しない」という見せかけを作っていました。
では、化粧を落としたあと、本当に「両取り」できる項目は残るのか。次の時間が、今日の授業のクライマックスです。
◆◆ 第8時間目 一番の大発見――「転職しやすさ」は成長と幸福の両方に効く ◆◆
1,063個の項目(データが足りない項目を除いた数)を全部洗い直して、成長と幸福の両方に強くプラスで、5つの化粧落としに耐え、37回のいじわるテストに一度も負けなかった項目は、実質的にたった1つでした。
それは、「雇用の流動性」。かんたんに言うと、「転職のしやすさ」です。
「同じ会社に10年未満しか勤めていない人の割合」という指標があります。この数字が高い国ほど、人がよく会社を移っている、つまり転職が普通の国です。化粧を落としたあとの偏相関は、成長に+0.53、幸福に+0.37。逆に「長く同じ会社にいる人の割合」は、成長に−0.53、幸福に−0.37。完全に鏡写しです。

(キャプション:図4 唯一の両取りレバー — 転職率と終身雇用度は完全な鏡像。)
ここで、+0.53という数字の「強さの感覚」を持っておきましょう。国どうしの比較で、しかも5つの黒幕を差し引いたあとに残る偏相関としては、これはかなり強い部類です。人間の世界は複雑で、たった1つの要因が国の運命を7割も8割も説明することは、まずありません。だから社会科学では、化粧落とし後に0.5前後が残ったら「大物」です。テストで言えば、1教科だけで合否の半分近くを左右する科目、というイメージで受け取ってください。
しかも面白いことに、この関係は素のデータではほとんど見えませんでした。転職率と成長の素の相関は+0.15。ほぼゼロです。なぜ隠れていたかというと、豊かな国ほど転職が多く、豊かな国ほど(伸びしろが小さいから)成長が遅いので、プラスの効果が打ち消されて見えなくなっていたのです。氷山の水面の上だけ見て「たいしたことないな」と言っていたら、水面下に巨大な本体があった。そういう発見です。
なぜ転職のしやすさが、国の成長に効くのでしょう。理屈はこうです。人にはそれぞれ得意なことがあります。でも、最初に入った会社がその人の力をいちばん活かせる場所だとは限りません。転職しやすい社会では、人が「自分の力がもっと活きる場所」へ移動していけるので、国全体として人材の配置がどんどん改善します。転職しにくい社会では、ミスマッチが一生固定されます。サッカーで言えば、フォワード向きの選手がずっとゴールキーパーをやらされているチームと、ポジション替えが自由なチームの違いです。
幸福に効く理屈は、もっと身近です。転職できる社会では、合わない上司や職場は「人生の通過点」です。転職できない社会では、合わない職場が「人生そのもの」になってしまう。実際、勤続年数の長さは幸福と−0.61という、かなり強いマイナスの関係がありました。
さて、日本の話をしましょう。日本は、「同じ会社に長くいる度合い」が世界トップクラスの国です。いわゆる終身雇用ですね。新卒で入った会社に定年までいるのが立派、途中で辞めるのは根性なし、という価値観が長く続いてきました。「石の上にも三年」ということわざもあります。冷たい石でも三年座れば温まる、だから辛抱しなさい、という意味です。いいことわざだと思います。ただ、現代日本版には省略されている続きがあるようです。「石が温まったころには、足がしびれて立てなくなっている」。
みなさんのクラスで想像してみてください。もし「クラス替えも席替えも一生なし。4月に決まった席が定年まで」というルールだったら、どうでしょう。隣の席の人と気が合えば天国ですが、合わなければ……。そして大事なのは、席替えがあると知っているだけで、いまの席のつらさは軽くなる、ということです。「ずっとではない」と思えることが、人の心を守る。雇用の流動性が幸福に効く理由の核心は、たぶんここにあります。実際に移るかどうかより、「移れる」という選択肢の存在そのものが効くのです。
誤解しないでほしいのは、この話は「終身雇用の時代を作った人たちが愚かだった」という意味ではない、ということです。戦後の日本では、終身雇用は名作でした。会社が人を長期で抱えるからこそ、安心して技術を教えられたし、社員は住宅ローンを組めた。あの時代のあの条件では、最適解だったのです。問題は、時代の条件が変わったのに、仕組みだけが残ったこと。名作も、上演し続ければいつか時代に合わなくなります。責めるべきは過去の選択ではなく、現在の点検不足のほうです。
誤解しないでほしいのは、データは「まじめに働くこと」を悪いと言っているのではない、ということです。勤勉さという価値観そのものは、化粧を落としたあとも成長とプラスの関係を保っていました。データが問題にしているのは、まじめさが1つの椅子に固定されていることです。同じ努力なら、それがいちばん活きる場所で発揮できたほうが、本人にとっても国にとってもいい。それだけの話なのです。
デンマークという国は、「会社が人を解雇しやすくする代わりに、失業しても国が手厚く生活を支えて、新しい仕事のための訓練を無料で受けられる」という仕組みを作りました。フレクシキュリティ(柔軟性+安全の造語)と呼ばれています。要するに、「立ち上がっても死なない床」を用意したのです。正座して足がしびれている人に必要なのは、「立て!」というお説教ではなく、立っても大丈夫な床なんですね。
ちなみにデンマークの幸福度は世界最上位の常連で、あとで出てくる「なんとかなる」と思える人の割合は90%です。
ここで、みなさんから出そうな質問に先回りして答えておきます。
質問「転職が当たり前になったら、会社が人を育てなくなりませんか? どうせ辞めるんだし」
いい質問です。実際、大人の議論でも必ず出てきます。データで答えましょう。世界でいちばん転職が盛んな社会のひとつ、デンマークや北欧の国々は、10時間目に出てくる「会社が大人に学ばせる割合」でも世界トップクラスです。逆に、終身雇用度の高い日本や韓国は、この割合が最下位圏。つまり現実の世界では、「辞めない社会ほど育てる」のではなく、「動く社会ほど育てる」なのです。
理屈を考えるとこうなります。みんなが転職する社会では、会社は「育てないと、いい人が来てくれない」。育てる会社に人が集まり、育てない会社は人が採れなくなる。育てることが、会社の生存戦略になるのです。逆にだれも辞めない社会では、育てなくても人は残ってくれるので、育てる理由が弱くなる。「どうせ辞めるから育てない」という直感は、社会全体で見ると逆向きに働くのですね。直感と統計が食い違うときの面白さは、こういうところにあります。
質問「じゃあ、ひとつの会社で勤め上げた人は間違っていたんですか?」
いいえ。この分析は「移った人が正しく、残った人が間違い」という個人の話ではありません。合う場所にいる人は、動く必要なんてないのです。問題は、「合わない場所にいる人が、動けない」という社会の構造のほう。選べたうえで残るのと、選べずに残るのとでは、同じ「勤続30年」でも意味がまったく違います。データが応援しているのは転職そのものではなく、「選べること」なのです。
◆◆ 第9時間目 残業は何を買っているのか ◆◆
次の発見は、みなさんのお父さんお母さん、そして将来のみなさん自身に関係する話です。
「週の労働時間」、つまりその国の人が週に何時間働いているか、という指標があります。素のデータでは、労働時間と成長率の相関は+0.31。「ほら、長く働く国は成長してるじゃないか」と言えそうな数字です。
化粧を落とします。結果、+0.08。ゼロです。
長く働く国が成長していたのではなく、追い上げ中の国がたまたま長く働いていただけでした。発展の段階をそろえて比べると、労働時間の長さは、成長を少しも買っていません。
では、長時間労働は何も生んでいないのか? いいえ、1つだけ、確実に生んでいるものがあります。
不幸です。労働時間と幸福の偏相関は−0.57。こちらは化粧を落とすとむしろハッキリ現れて、いじわるテストにもびくともしませんでした。
まとめると、労働時間を延ばすことは、「代金(幸福)を払って、商品(成長)を受け取らない買い物」だということです。お店でこれをやられたら、消費者センターに相談する案件です。
部活で考えてみると、実感がわくと思います。想像してください。毎日夜8時まで「とにかく長く」練習する野球部と、5時半にきっちり終わるけれど練習メニューが濃い野球部。どちらが強くなるでしょう。スポーツ科学の世界では、答えはほぼ出ています。だらだら長い練習は、疲労で質が下がり、ケガが増え、考える余白を奪う。「練習時間の長さ」と「強さ」は、あるラインを超えると切れるのです。国の労働も同じことが起きている、というのが今回のデータの示すところです。
では、なぜ日本の職場は長くいることをやめられないのでしょう。理由のひとつは、評価の仕組みです。「何を生み出したか」を測るのは難しいけれど、「何時間いたか」を測るのは簡単。だから簡単なほうで頑張りを測ってしまう。テストが「解けた問題の質」ではなく「机に向かった時間」で採点されたら、みなさんもきっと、机に長く向かうふりの技術ばかり磨きますよね。人間は、測られ方のとおりに行動する生き物なのです。これは覚えておくと、将来どんな組織に入っても役に立つ法則です。
大事なのは、ここでも「働くこと自体が悪」ではないことです。何を生み出したかという「成果」と、会社に何時間いたかという「滞在時間」は、まったくの別物。データは、成果につながる働き方は否定していません。否定しているのは、「長くいること」そのものを頑張りの証明として扱う文化です。日本では「お忙しいところ恐縮ですが」と書かないメールは失礼にあたる、というくらい、「忙しさ」が敬意の通貨になっています。でもこの通貨、データの世界での価値は「成長ゼロ、幸福マイナス0.57」なのです。
このテーマには、答え合わせの機会がすでに用意されています。おとなりの韓国は、2018年に「週52時間まで」という法律を作って、労働時間に上限を設けました。もし今日の分析が正しければ、韓国はこれから、成長をあまり損なわずに幸福度が上がっていくはずです。何年かたったら「世界幸福度報告」を検索してみてください。予言が当たったかどうか、みなさん自身の目で確かめられます。データの勉強でいちばん面白いのは、この「答え合わせ」の瞬間です。
ついでに、もう1つ。「軍隊の人数(人口あたりの兵力)」は、幸福と−0.78という、今回の全データでいちばん強い「幸福を削る」項目でした。兵役も残業も、共通点は「自分で選べない時間」です。強制された時間は、形がなんであれ、人の機嫌を削っていくようです。
◆◆ 第10時間目 学びのタイミング――これは君たち自身の話 ◆◆
今日の授業でいちばん美しい発見を紹介します。「美しい」というのは、結果がきれいに正反対に割れた、という意味です。そしてこれは、いま学校に通っているみなさんに、いちばん直接関係のある話です。
まず、「子どもの学習時間」。各国の生徒が1週間に何時間勉強しているか、という指標です。化粧を落としたあとの結果は、成長に+0.41、幸福に−0.44。
つまり、子どもに長時間勉強させる国は、たしかに成長するのです。でも、その国の人たちは笑わなくなる。これは化粧落としに耐えて残った、数少ない「本物のトレードオフ(あちらを立てればこちらが立たず)」でした。
次に、「大人の学び」。会社が社員に研修や訓練を用意して、働く大人が新しいことを学べている割合、という指標です。こちらの結果は、幸福に+0.83。
+0.83という数字の意味を説明させてください。今回の1,063項目の中で、「昨日ポジティブな気分だったか」みたいな、幸福そのものを聞いているような項目を除くと、これが幸福との結びつきの最強値です。低技能・中技能・高技能、どの層で測っても同じ。37回のいじわるテストでも不動。しかも「職場や家庭で読み書きの力を実際に使えている」という実感も+0.82で並んでいました。そして大事なことに、大人の学びは成長の邪魔をしません(成長への影響はほぼゼロ)。
整理すると、こうなります。
学びは、「いつ学ぶか」で効果の向きが変わる。
15歳に詰めこむと、成長を買って、幸福を支払う。
45歳に贈ると、何も支払わずに、幸福を受け取る。
念のため。これは「みなさんは勉強しなくていい」という意味ではありません。個人にとって、学力が人生の選択肢を広げることは、今も昔も変わらない事実です。ここで話しているのは国レベルの配分の話。国全体の「学びの予算と情熱」を、子どもに100、大人に0で配るのと、子どもに70、大人に30で配るのとでは、後者のほうが国の幸福の合計が大きくなりそうだ、という話です。みなさん個人の勉強の価値は、1ミリも下がっていません。むしろ「学び続ける大人になる」という選択肢が、この授業で1つ増えたはずです。
さて、日本はどうでしょう。日本の15歳は、世界有数に勉強しています。学校が終わったあとに塾というもう1つの学校に通う仕組みは、世界的に見てもかなり珍しいものです。夜10時の駅前に、眠そうな制服姿の列ができる国。子どもの勉強への熱意にかけて、日本は間違いなく世界トップクラスです。
一方、日本の45歳は。会社が社員の能力開発にかけるお金は、他の先進国に大きく見劣りすることが、政府の白書でも何年も指摘され続けています。何年も指摘され続けている、ということは、何年も変わっていない、ということです。
つまり日本は、学びへの投資のタイミングが、データの示すベストと正反対なのです。幸福を犠牲にしてでも成長を買う年齢(子ども)に投資を集中させて、タダで幸福が手に入る年齢(大人)には投資していない。
みなさんに1つ、いいことを教えます。「昨日、何か面白いことを学んだ気がする」という実感は、素のデータの段階から、幸福と+0.80で結びついていました。そしてこの実感は、国の豊かさとはほとんど関係がありません。貧しい国の人にも、豊かな国の人にも、「今日のわかった!」は平等に訪れる。人間の機嫌をつくる一番安い材料は、小さな「わかった」なのです。これはテストの点数の話ではありません。ゲームの攻略でも、部活の新しい技でも、推しの新曲の歌詞の意味でも、「昨日知らなかったことを今日知っている」という感覚そのものの話です。
勉強がつらい夜に、思い出してください。学ぶこと自体は、データ上、人間を幸福にする最強クラスの活動です。つらいのは学びではなく、「詰め込まれ方」のほうなのです。
ここも、出そうな質問に先回りしておきます。
質問「子どもの勉強時間が成長にプラスなら、日本の詰め込み教育は正しかったんじゃないですか?」
半分は、そのとおりです。データは「子どもの学習時間は成長に+0.41」とはっきり言っています。日本の経済成長を、みなさんの先輩たちの猛勉強が支えた面は確実にあるでしょう。ただし、代金の欄も読んでください。幸福に−0.44。この買い物は、タダではないのです。そして忘れてはいけないのは、隣に「大人の学び:幸福+0.83、成長への害ゼロ」という、ほぼタダの棚があること。同じ「学び」への投資なら、子どもに全額つぎ込むより、大人に分散したほうが、国全体の買い物としては明らかに上手です。日本は世界一、学びへの熱意がある国なのに、その熱意の使い方だけが下手──というのが、データの診断です。
質問「大人の学びって、具体的に何を学ぶんですか?」
なんでもいいのです。データの項目は「雇用主が用意した訓練を受けたか」「読み書きの力を仕事や生活で実際に使っているか」という、ごく広いものでした。新しい機械の使い方でも、外国語でも、簿記でも、プログラミングでも。大事なのは中身より、「昨日できなかったことが今日できる」という感覚が、大人の日常に定期的に届くことです。人間は何歳になっても、レベルアップの音が好きな生き物なのです。ゲームがあれほど人を夢中にさせるのは、あの音を確実に鳴らしてくれるからで、いい社会というのは、現実の生活であの音が鳴る社会のことかもしれません。
◆◆ 第11時間目 空気と病院と裁判所――タダで配られている幸福 ◆◆
「幸福」というと、感謝の気持ちとか、ポジティブ思考とか、心の持ちようの話になりがちです。でも、データが挙げた「国民の機嫌の条件」は、拍子抜けするほど現実的なものでした。3つ紹介します。
1つめ、空気。PM2.5という大気汚染の指標があります。この濃度と幸福の偏相関は−0.65。汚れた空気の下では、人は笑わなくなるのです。逆に言えば、きれいな空気は、政府が国民に配れるいちばん静かな仕送りです。だれもお礼を言いませんが、毎日全員に届いています。
空気について、少しだけ歴史の話を。いまの日本の空はわりときれいですが、1960〜70年代の日本は、公害で世界的に有名な国でした。四日市ぜんそく、光化学スモッグ。社会科で習ったあの時代から、日本は法律と技術で空気を磨き続けて、いまの水準にたどり着いたのです。つまり「きれいな空気」は自然にあったものではなく、前の世代が何十年もかけて作った人工物です。当たり前に見えるものほど、誰かの何十年だったりする。データの+や−の裏には、いつもそういう物語があります。
2つめ、医療。1人あたりの医療費は、素のデータでは幸福と無関係に見えました。でも化粧を落とすと+0.52で現れました。豊かさの影に隠れていたのです。病気になったときちゃんと診てもらえるという安心は、静かに国民の機嫌を支えています。ちなみに日本のCTスキャナ世界一には、「多すぎでは?」という議論もあります。機械を買いすぎて、1台あたりの稼働が薄くなっているという指摘です。ただ、足りなくて診てもらえない悩みと、ありすぎて余っている悩みなら、後者のほうが上等な悩みではあります。悩みにも格というものがあるのです。
3つめ、裁判所。「法治度」、つまり法律がちゃんと守られ、もめごとが暴力ではなく手続きで解決される度合いです。幸福に+0.49、成長にも+0.34。数少ない「両取り」側の優等生です。約束が守られる社会は、経済にも機嫌にも効く。「働きに応じてちゃんと報われる」という感覚(メリトクラシー度)も+0.47で並んでいます。
ここで、日本のみなさんに朗報です。空気、医療、法治。この3つとも、日本は世界の上位グループです。空気はどんどんきれいになっているし、健康保険証1枚でどこでも診てもらえる仕組みは世界がうらやむものだし、法律もちゃんと機能している。
つまり日本は、幸福の「土台」はすでに持っているのです。
持っているのに、幸福度は下から11番目。なぜか。土台の上に、何も建てていないからです。8時間目の「動けない雇用」、9時間目の「何も買えない残業」、10時間目の「大人に届かない学び」が、せっかくの立派な土台の上に、じっと正座している。
たとえるなら、こういう家です。地盤の改良と基礎工事は、30年前に世界最高の品質で完了しました。ところがその上に、家がまだ建っていない。家族は立派な基礎コンクリートの上にレジャーシートを敷いて、30年間、律儀に暮らし続けている。雨風がしのげないのは、地盤のせいではありません。
日本の問題は、「足りない」ことではなく「配置が悪い」ことである。今日の授業の診断を一言でいえば、これに尽きます。
休み時間がわりに、ここまでの発見を「値段表」にまとめておきましょう。国の政策は、つまるところ買い物です。
【高いけど本物の棚】子どもの学習時間(成長+0.41を買うのに幸福−0.44を支払う)。格差の許容(成長+0.50に幸福−0.22)。買うなら、代金を覚悟して。
【不良品の棚】残業(代金:幸福−0.57。商品:成長+0.08、ほぼ空箱)。軍備の人的な拡大(代金:幸福−0.78)。大きすぎる政府(代金:成長−0.61。商品:幸福+0.02、ほぼ空箱)。
【実質タダの棚】大人の学び(幸福+0.83、代金なし)。きれいな空気(−0.65の回避)。行き届く医療(+0.52)。法の支配(+0.49、おまけに成長+0.34)。若者の高等教育(成長+0.55、幸福の代金なし)。雇用の流動性(成長+0.53と幸福+0.37のセット販売)。
国の幸福は、精神論の棚ではなく、この「実質タダの棚」に置いてあります。そして日本は30年間、この棚の前を素通りして、不良品の棚のレジに律儀に並び続けてきました。店内放送を流しておきます。「お客さま、お買い忘れはございませんか」。

(キャプション:図5 幸福の値段表 — 実質無料の棚と不良品の棚。)
◆◆ 第12時間目 大人の政治の話を、数字で見てみる ◆◆
この時間は、ちょっと背伸びして、大人が選挙のたびにケンカしている話題をデータで見てみます。先に言っておくと、この時間の内容は、どちらの陣営の大人にとっても少し気まずい話です。
大人のケンカのテーマの1つに、「大きな政府か、小さな政府か」というものがあります。大きな政府とは、税金をたくさん集めて、年金や福祉などのサービスを手厚くする方針。小さな政府とは、税金を安くして、民間の自由に任せる方針です。
データはこう言っています。政府が経済から吸い上げるお金の割合(政府歳入がGDPにしめる割合)と成長の偏相関は−0.61。年金の手厚さも−0.60。国民負担率も−0.49。つまり、政府が大きいほど、成長は遅い傾向がはっきりあります。ここまでは「小さな政府」派の大人がよろこびそうです。
ところが、続きがあります。では大きな政府は、成長を犠牲にするかわりに、幸福を買えているのか? 政府の大きさと幸福の偏相関は、+0.02。ゼロでした。手厚い年金も、幸福とは結びついていません(−0.13)。成長という代金を払って、幸福という商品を受け取れていない。9時間目の残業と同じ、「代金だけ払う買い物」を、国家がやっている可能性があるのです。
ただし、ここは正直に言います。この項目には「逆向きの矢印」の疑いが残ります。政府が大きいから成長が遅いのではなく、成長が遅いから税金の割合が上がってしまう、という可能性です。高齢化の影響は取りのぞいてありますが、完全には決着がついていません。
次に、「格差」の話です。格差の大きさは「ジニ係数」という指標で測ります。仕組みを簡単に言うと、クラス全員の所持金が完全に同じなら0、たった1人が全額を持っていてほかが0円なら1になる物差しです。今回使うのは、税金で集めて配り直したあと(再分配後)のジニ係数。つまり「政府が調整し終わったあとに、それでも残っている格差」です。
このジニ係数と成長の偏相関は+0.50。幸福とは−0.22。つまり、格差を許す国は成長する。そして笑わなくなる。これは化粧落としに耐えた、正真正銘の本物のトレードオフでした。
なぜ格差が成長に効くのか、理屈はいくつか考えられます。差がつく社会では、頑張りや挑戦への「ごほうび」が大きいので、人がリスクを取りやすい。一方で、差が大きい社会では、下に落ちる恐怖も大きく、他人との比較で心がすり減る。ごほうびの力と、恐怖と比較のストレス。このアクセルとブレーキが、+0.50と−0.22という2つの数字に、それぞれ顔を出しているのかもしれません。
面白いと思いませんか。「成長と幸福の綱引き」の正体は、突きつめると「勤勉かどうか」ではなく、「格差をどこまで許すか」だったのです。そしてこの問いには、統計は答えを出せません。どこまでの差なら公正で、どこからが不公正か。それは数字ではなく、社会に生きる人たち、つまり将来のみなさんが投票で決めることです。
データにできるのは、ケンカの弾薬を「なんとなくのイメージ」から「数字」に替えることだけです。でも、それだけでもケンカはずいぶん建設的になります。大人になってニュースの討論を見るとき、「その主張の数字はどこにあるんですか」と心の中でツッコむ習慣を、今日から持ってください。
最後におまけ。「子どもに従順さ(言われたとおりにすること)を教える度合い」という文化の指標は、成長と−0.50でした。素直に言うことを聞く国民は、治める側には便利ですが、経済は伸びないのです。「言われたことを言われたとおりに」だけでは、国は豊かにならない。学校で流されずに自分の頭で考えることには、国家レベルの経済価値がある、ということです。
◆◆ 第13時間目 「なんとかなる」と思えない国――58.6%は、君たちのことです ◆◆
いよいよ、今日いちばん伝えたかった数字の話をします。
PISA(ピザ)という、世界中の15歳が受ける国際的な学力調査があります。2018年の調査に、学力テストとは別に、こんな質問がありました。
「困難な状況にあっても、私はたいてい、切り抜ける方法を見つけられる」
この質問に「そう思う」と答えた15歳の割合。1位はコロンビアで90.1%。デンマークが90.0%。そして日本は、58.6%。37カ国中、最下位でした。
コロンビアという国は、治安の統計では日本よりずっと危険な国です。その国の15歳の9割が「なんとかなる」と信じていて、世界一安全で世界一長寿な国の15歳は、10人中4人が「なんともならない」と感じている。客観的な安全と、主観的な自信が、ここまで見事に逆転している例を、私はほかに知りません。
「たまたまその質問だけでは?」と疑った人、いい姿勢です。4時間目で習った「兄弟指標の点呼」をやってみましょう。同じPISAには「私はたいてい、なんとかやり遂げることができる」「同時に多くのことをこなせる」といった兄弟の設問もあります。日本は、それらでも軒並み最下位圏でした。兄弟が全員同じ方向を指している。つまりこれは、設問のクセではなく、本物の傾向です。

(キャプション:図6 自己効力感、37カ国中最下位 — 日本58.6、コロンビア90.1。)
この「なんとかなる」という感覚を、心理学では「自己効力感」と呼びます。そして今回のデータでは、自己効力感の仲間の指標(たとえば数学の自己効力感)は、幸福と+0.47でつながっていました。「なんとかなる」と思えることは、幸福の隣人なのです。
なぜ日本の15歳は、世界でいちばん「なんともならない」と感じているのでしょうか。
ここで、今日の授業がぜんぶつながります。私の考えを言います。自己効力感は、性格ではありません。履歴です。「切り抜けた経験」の積み重ねが「切り抜けられる気がする」を作る。逆に、切り抜けた経験を積む機会がなければ、切り抜けられる気がしないのは当然なのです。
では日本社会は、「切り抜けた経験」を積みやすい社会でしょうか。8時間目を思い出してください。大人たちは、合わない職場からも動けない社会に生きています。「イヤなら移ればいい、移った先でなんとかなった」という経験が、社会全体で決定的に不足している。9時間目の長時間労働は、新しいことに挑戦する時間と体力を削っています。10時間目のとおり、大人になってから「新しくできるようになった!」という機会も少ない。
子どもは、大人を見て育ちます。「なんとかなる」と思えない大人たちの背中を見て育った15歳が、「なんとかなる」と答えられるでしょうか。58.6%という数字は、みなさんのせいではありません。みなさんが見てきた風景の、正直な感想なのです。
もうひとつ、6時間目の「日本の3点セット」を回収しましょう。日本は、推し活の熱量が世界的に突出していて、自己効力感が世界最下位の国でした。推し活とは何でしょうか。他人の挑戦を、全力で応援することです。ステージの上の誰かが困難を切り抜ける物語に、時間とお金と感情を注ぎこむこと。
つまり日本人は、応援する力を失ってはいないのです。ただ、その力の向き先が、全部「外」なんです。「推しは推せるときに推せ」という言葉の切実さは、裏を返せば「自分は自分を推せない」ということでもある。
だとしたら、日本の再建というのは、実はシンプルな工事です。ペンライトを1本だけ、自分に向ける。もちろん、気合いでそうしろと言っているのではありません。8時間目の「立っても死なない床」と、10時間目の「大人の学び」は、「切り抜けた経験」を社会の仕組みとして量産する装置です。装置があれば、履歴は書き換わります。履歴が書き換われば、「なんとかなる」は戻ってきます。
ちなみに、データにはこんな皮肉な項目もありました。「自分を信じる気持ちが困難を乗り越える助けになる」というスローガンみたいな設問への賛同率は、化粧を落とすと幸福とマイナスの関係だったのです。経験の裏付けがない「自分を信じろ」は、効かない。必要なのは信じる気合いではなく、信じるに足る経験のほうなのです。ポスターの標語では、履歴は書き換わりません。
最後に、ひとつ不思議な事実を。日本は世界有数の「訓練の国」です。地震に備える避難訓練、火事に備える消火訓練。学校でも会社でも、災害への備えは世界一きちんとやる。ところが、「人生の避難訓練」──いまの居場所が合わなくなったら、どこへどう逃げるか──だけは、だれも一度も訓練したことがない。避難経路そのものが、社会に用意されていないからです。地震より高い確率で起きる災害(合わない職場、合わない環境)への訓練だけが、すっぽり抜けている。日本の再建は、この抜けている訓練を社会に組み込むことから始まる、と言ってもいいかもしれません。
みなさんに、今日から積める「なんとかなる貯金」の例を置いておきます。行ったことのない場所にひとりで行ってみる。作ったことのない料理を作る。文化祭で、やったことのない係に立候補する。小さくていいのです。大事なのは、「初めてだったけど、なんとかなった」という記録を、自分の中に1行ずつ増やすこと。58.6%という数字は、あなた個人の中では、今日から動かせます。
◆◆ 第14時間目 日本を建て直す5つの提案 ◆◆
診断が終わりました。処方箋を書きます。今日の分析で「原因の候補」として生き残った項目だけから組み立てた、5つの提案です。
提案1。椅子から立てる床を作る(雇用の流動化)。
効果の見込み:成長+0.53、幸福+0.37。今回見つかった唯一の「両取り」レバーです。
中身:会社を移りやすくする。そのかわり、移る人が困らないように、失業中の生活保障と、無料で受けられる再訓練をセットにする(デンマーク方式)。あわせて、転職を「裏切り」「根性なし」と呼ぶ言葉づかいを、社会からゆっくり引退させる。
注意:床を柔らかくしないで椅子だけ蹴とばすのは、この提案ではありません。それはただの意地悪です。
提案2。「長くいること」を頑張りの証明にしない(労働時間の削減)。
効果の見込み:幸福−0.57の解除。成長への損失は+0.08なので、実質ありません。
中身:何時間いたかではなく、何を生み出したかで評価する。韓国が週52時間制という実験を先にやってくれているので、その結果もありがたく参考にする。
みなさんへ:この提案は、実はみなさんの教室でも予行演習ができます。「遅くまで残って勉強しているように見える人」と「結果を出している人」を、頭の中で区別する癖をつけること。自分自身についても、「今日は3時間机に向かった」ではなく「今日は何ができるようになったか」で1日を採点すること。時間で自分を測る癖は、就職したあとの残業体質の予行演習になってしまいますから、学生のうちに手放しておくのが得です。
提案3。大人に学びを配る。
効果の見込み:幸福+0.83。今回のデータで最強の幸福の項目です。成長への害はゼロ。
中身:会社が社員の学びにお金を使ったら税金を安くする。個人には、何にでも使える「学びのクーポン」を配る。大事なのは、学びを勤務時間の中で、仕事として行うこと。仕事のあとに自腹で夜学べ、というのは、提案2で禁止した残業の変装です。
みなさんへ:この提案は、みなさんが大人になるころの働き方の話です。就職先を選ぶとき、「この会社は社員に何を学ばせてくれますか」と聞いてください。その質問に嫌な顔をする会社は、データ上、社員を幸福にしない会社です。
提案4。土台の手入れを続ける(空気・医療・法治)。
効果の見込み:−0.65の回避、+0.52、+0.49。
中身:ここは日本がすでに世界上位なので、維持あるのみ。ただし「できていること」の自慢は1日1回まで。自慢に時間を使うと、提案1〜3から目がそれます。
みなさんへ:11時間目で話したとおり、いまのきれいな空気も皆保険も、前の世代が何十年もかけて作った人工物です。当たり前に見えるインフラは、手入れをやめた瞬間から静かに壊れ始めます。みなさんの世代の仕事は、これを「作る」ことではなく「壊さずに受け継ぐ」こと。地味に聞こえますが、歴史上、繁栄を失った国の多くは、新しいものを作れなかった国ではなく、持っていたものの手入れを怠った国です。
提案5。格差の議論を、数字でやる。
中身:格差は成長+0.50、幸福−0.22という本物のトレードオフで、正解は数字からは出ません。どこで折り合いをつけるかは民主主義の仕事、つまり数年後に選挙権を持つみなさんの仕事です。お願いはひとつだけ。議論のときは、イメージや感情ではなく、数字を机に置いて話すこと。「大きな政府は幸福を買えていない(+0.02)」という不都合な数字も、机から下ろさないこと。
みなさんへ:学級会や生徒会で、意見が真っ二つに割れた経験はありませんか。文化祭の出し物、体育祭のルール。あのとき、声の大きい人が勝ったでしょうか、それとも根拠を持ってきた人が勝ったでしょうか。もし声の大きさが勝ったなら、それはミニチュア版の「数字なき政治」です。民主主義の練習は、選挙権が来る前から、教室で始まっています。数字を机に置く係を、ぜひ引き受けてみてください。地味ですが、あの係がいる教室といない教室では、決まることの質が違ってきます。
5つに共通する精神を一言で言います。日本に足りないのは、資源でも根性でもなく、「回転」です。人も、お金も、学びも、動かないまま置かれている。日本は世界一の長寿国、つまり世界一持ち時間の長いプレイヤーです。持ち時間が一番長いのに、駒を動かさないで時間切れを待っている。将棋なら反則すれすれですが、幸い、国の対局に時間切れはありません。今からでも、駒は動かせます。
◆◆ 第15時間目 質問コーナー――この授業へのツッコミ大会 ◆◆
処方箋まで書き終えたところで、質問コーナーを開きます。今日の授業に対して出そうなツッコミを、遠慮なくぶつけてください。むしろツッコんでくれないと、この授業は失敗です。
ツッコミ1「たった37カ国のデータで、偉そうに語りすぎでは?」
まったくそのとおりで、この弱点は最初から白状しています。ただ、ひとつだけ補足を。37カ国というのは「地球上で、比較に耐える統計を整備できた先進国の、ほぼ全部」なのです。標本が少ないというより、世界にまだ先進国が37しかない。データの限界というより、人類の進み具合の限界です。50年後、比較できる国が100になったとき、今日の仮説を検算するのは、みなさんの世代の仕事になります。
ツッコミ2「幸福の感じ方なんて文化で違うのに、国際比較に意味あるの?」
半分正しい。だからこそ今回の分析は、ラテンの陽気さや北欧の充実感を、ダミー変数という道具で数学的に取りのぞいたうえで、それでも残った関係だけを報告しました。文化の違いを理由に国際比較をぜんぶ捨てるのは、「体質は人それぞれだから」と言って健康診断を受けないのと同じです。体質の違いは本当にある。それでも血圧は測ったほうがいい。
ツッコミ3「相関は因果じゃないって自分で言ってたのに、処方箋まで書くのは矛盾では?」
鋭い。ここは丁寧に答えます。「相関は因果ではない」という言葉には、正しい使い方と間違った使い方があります。正しい使い方は、「だから、因果に近づく手続きを踏もう」と続けること。間違った使い方は、「だから何もわからない」と言って、代わりに自分の経験談や思い込みで語り始めることです。相関は因果ではありませんが、おじさんの経験談は相関ですらありません。今日の授業は、観察データで登れるところまで登り、「ここから先は実験と追試の領域です」と地図に線を引きました。線を引いたうえでの処方箋は、矛盾ではなく、科学の作法だと思ってください。ただし処方箋には「候補にもとづく提案」という但し書きが、常に透かしで入っています。
ツッコミ4「先生の分析にも、先生の思想が入ってるのでは?」
これが今日いちばん怖くて、いちばん大事なツッコミです。答えはイエス。分析には必ず、分析者の選択が入ります。どの黒幕を選ぶか、どのしきい値で区切るか。私は選択をぜんぶ本文に書きましたが、書いたからといって中立になるわけではありません。だからみなさんに渡せる最強の武器は、結論ではなく、「再現できる手順」です。同じデータで、同じ手順を踏めば、私を信じなくても同じ結果が出る。科学が信用に足るのは、科学者が立派だからではなく、検算を歓迎する仕組みだからです。信じるな、検算せよ。今日の授業でこれだけ覚えて帰ってくれたら、私は満足です。
ツッコミ5「で、結局この話、僕たち私たちに関係あります? 制度を変えるのは大人でしょ」
関係は、3つあります。第一に、みなさんは数年後に有権者になります。今日の数字は、そのときの判断材料です。第二に、みなさんはこれから就職する側です。会社を選ぶ基準──「学ばせてくれるか」「時間でなく成果で測るか」「辞めた人を悪く言わないか」──を持って市場に出ていく若者が増えるだけで、企業は変わらざるをえません。就活生の質問は、実は社会を変える静かな投票なのです。第三に、13時間目の58.6%は、ほかでもない、みなさんの世代の数字です。この数字の当事者として、「なんとかなる」の履歴を自分に貯金し始めるのに、制度の完成を待つ必要はありません。
◆◆ 第16時間目 この授業を疑ってほしい――正直な但し書き ◆◆
最後の時間は、今日の授業そのものを疑う時間です。これを言わない先生を、信用してはいけません。
但し書き1。今日話したことはすべて「相関」であって、「因果の証明」ではありません。37カ国の観察データから因果を証明する方法は、この世に存在しないのです。化粧を落とし、いじわるテストに耐えた関係は「原因である可能性がかなり高い候補」ですが、候補は候補です。裁判でいえば、有力な容疑者ではあるけれど、判決は出ていません。
但し書き2。37カ国は、少ない数です。1,193個も項目をぶつければ、偶然の相関が必ず混ざります。5時間目の「HIVと幸福」の例を思い出してください。今日紹介した発見の中にも、何年後かの研究で「あれは偶然でした」と判明するものが、確率的に言って、たぶん混ざっています。それでいいのです。まちがいが見つかる仕組みごと信じるのが、科学の信じ方です。
但し書き3。答え合わせの予定表を置いておきます。韓国の労働時間規制の結果。デンマーク方式の他の国での再現。日本国内でも、都道府県ごとに転職率と幸福度を比べれば、今日の仮説の検算ができます。今日の話は、外れる自由を保証されたうえで、みなさんに手渡されています。
ここで、「科学の信じ方」について少しだけ。科学は「絶対に正しいことの集まり」ではありません。「まちがいを見つけて直す仕組みが動き続けている状態」のことです。ニュートンの物理はアインシュタインに部分的に書き換えられましたが、だからといってニュートンが無意味だったわけではない。橋も飛行機も、ニュートンで十分作れます。今日の授業も同じです。将来もっといいデータともっといい手法が出てきたら、部分的に書き換えられるでしょう。それは失敗ではなく、科学が正常に動いている証拠です。「絶対正しい」と言い張る主張と、「ここまでは言える、ここからは言えない」と線を引く主張。長い目で見て信用できるのは、いつも後者です。
もうひとつ、実践的な忠告を。今日みなさんは「化粧を落とす前と後」の両方の数字を見ました。ということは、今後だれかが素の相関だけを見せて何かを主張してきたとき、みなさんは「それ、化粧を落としてもそう言えますか?」と聞ける人になった、ということです。この質問は、思いのほか強力です。プレゼンでも、論文でも、SNSでも、この一言に耐えられる主張は、実はそんなに多くありません。どうぞ、やさしく使ってください。質問は、相手を倒す武器ではなく、議論を良くする道具です。
但し書き4。この授業では、扱いきれなかった大事な話もあります。たとえば環境と気候の問題。データには「自然資本の豊かさは成長と幸福の両方に効く」「水不足は両方を削る」という項目がありましたが、気候変動そのものの分析は、今回のデータの守備範囲を超えます。また、幸福の測り方には「人生への満足度」など別の測り方もあって、測り方を変えると順位が動く国もあります(日本は「感情」で測るより「満足度」で測るほうが少し順位が上がる傾向があります)。1つのデータセットは、世界の1枚のスナップ写真にすぎません。写真を何枚も重ねてはじめて、立体が見えてきます。今日の授業は、その1枚目です。
そして、みなさん自身へのお願いです。今日の授業でいちばん持ち帰ってほしいのは、日本の処方箋そのものではなく、その手前にある技術です。この授業を受けたみなさんと、受けていない人との違いは、日本についての知識ではありません。「強い数字を見たときに、一呼吸置ける」という反射神経です。もう一度だけ繰り返します。
相関は、因果ではない。
強い相関を見たら、黒幕(交絡)を探せ。
「条件をそろえたら、その関係はまだ残るか?」と問え。
1つの国、1つの事例に頼った主張を信じるな。
そして、但し書きのない断言を信じるな。
この5行は、大学入試の小論文にも、SNSのあやしい情報にも、将来の仕事にも、選挙にも、一生効きます。今日の授業は、日本の話をしているふりをして、実はこの5行を教える授業でした。
◆◆ おわりに 今日、何かひとつ ◆◆
長い授業に付き合ってくれて、ありがとうございました。最後に、データの中でいちばん希望のある事実を、もう一度だけ。
「昨日、何か面白いことを学んだ」という実感は、幸福と+0.80で結びついていて、しかも国の豊かさとはほぼ無関係でした。つまり、幸福のいちばん強い材料は、お金の外側で、毎日タダで配られているのです。
国の再建は、国会や会社の偉い人の仕事に見えるかもしれません。でも、+0.80の材料は、今日の放課後、みなさんが自分の手で拾えます。何かひとつ、昨日知らなかったことを知って帰る。できなかったことを、ひとつできるようにして帰る。それは受験勉強でなくてもかまいません。
そして、今日の授業でみなさんは、実はもうひとつ拾っています。相関と因果の区別。黒幕の探し方。化粧の落とし方。「その数字、化粧を落としてもそう言えますか?」という質問。これらは、今日の日本の診断より長持ちする道具です。診断は何年かで古くなりますが、道具は一生ものです。
最後に、正直な予言をひとつ。みなさんが大人になるころ、「日本はもうだめだ」という声と「日本はすごい」という声の両方が、あいかわらず聞こえているはずです。どちらの声も、たいてい化粧をした数字を1つか2つ、振り回しています。そのときみなさんは、今日の教室を思い出してください。だめでもすごいでもなく、「診断して、配置を直す」。国は、応援するものでも、あきらめるものでもなく、手入れするものです。世界一長持ちしている庭を受け継ぐ庭師として、これほどやりがいのある仕事もないと思います。
日本は、小さな改善を何十年もコツコツ積み上げて、世界一の平均寿命を作った国です。その同じ根気を、「生きる長さ」ではなく「生きる張り合い」に振り向けたら、何が起きるか。それを確かめるのは、データの上でいちばん若い読者、つまり、みなさんです。
診断書の最後の一行を書いて、この授業を終わります。
(おわり)
日本語版(大人版・中高生版)
クレジット
社会戦略フォーラム 松村有晃(まつむら くにあき) 池田千代和(いけだ ちよかず) 山口揚平(文筆)
使ったデータはこちら💁
https://agewaller.github.io/World-Effect-Benchmark/
追伸2
慢性疾患の人向けの日記・診断ツールを作りました。僕自身のここ2年半の慢性疲労症候群/筋痛性脳脊髄炎(ME/CFS)の原体験に則って作ったもので、ユーザーの情報に対して「最新」「最適」「something new(新規の)」の処方や対処法を提供したり、医師への自動レポート作成やスムーズな補助金の申請なども取り入れています。
→https://cares.advisers.jp/