営業所の倉庫の奥に、
一台だけ、誰にも触れられないまま置かれている自転車があった。
新製品のサンプルでもなく、
展示用でもなく、
誰かの私物でもない。
ただ、そこに置かれていた。
フレームには細かい傷があった。
ハンドルのゴムは少しだけ擦れていた。
でも、タイヤだけは新品のようにきれいだった。
空気を入れなくてもいいエアレスタイヤ。
いつ乗っても同じ状態で、
誰にでも扱えるように作られたタイヤ。
その自転車が、
なぜ倉庫の奥に置かれているのか、
誰も知らなかった。
ある日、
古い書類を整理していたとき、
一枚だけ色の違う紙が出てきた。
「試乗車——担当:佐藤」
佐藤という名前は、
もう会社にはいない人だった。
数年前、
急に退職した。
理由は誰も知らない。
聞くこともできなかった。
その紙を見た瞬間、
倉庫の奥の自転車が、
急に“ただの物”ではなくなった。
佐藤は、
この自転車をどんな気持ちで扱っていたのだろう。
新製品の説明を受けて、
タイヤの構造を理解して、
店舗に提案するために、
何度も乗ったのだろうか。
もしかしたら、
誰も見ていない時間に、
少しだけ遠くまで走ったのかもしれない。
エアレスタイヤの“静かな音”を聞きながら、
何かを考えていたのかもしれない。
倉庫の奥に置かれたままの自転車は、
佐藤が最後に触れた製品だったのかもしれない。
誰も知らない。
誰も覚えていない。
誰も気づいていない。
でも、
その自転車だけは、
確かに“誰かの時間”を乗せていた。
営業所を出るとき、
ふと振り返ると、
倉庫の奥の自転車が、
少しだけ光に照らされていた。
新品のようにきれいなタイヤだけが、
静かに、そこにあった。
その光景が、
なぜか胸の奥に残った。
理由は分からない。
説明もできない。
ただ、
“誰かが大切にしていたものが、
誰にも気づかれないまま残っている”
という事実が、
思っていたよりずっと、
さみしくて、
あたたかかった。