小さな町の自転車店。
夕方になると、店の前を一台の古い自転車が通り過ぎる。
乗っているのは、少し猫背の青年。
店主はいつも、その背中を見送るだけだった。
ある日、青年の自転車が店の前で止まった。
「すみません、ブレーキが…」
店主は黙って頷き、工具を手に取る。
青年は、修理を待つ間、店の隅に置かれた古い子ども用自転車をじっと見ていた。
「これ、誰のですか」
店主は少しだけ笑った。
「うちの子のだよ。もう乗らないけどね」
青年はそれ以上何も言わなかった。
翌週も、その翌週も、青年は店の前を通った。
店主はいつも、店の奥からその背中を見ていた。
ある雨の日、青年は店に入ってきた。
「またブレーキが…すみません」
店主はタオルを差し出し、濡れた肩を軽く叩いた。
修理が終わると、青年は少し躊躇してから言った。
「僕、小さい頃、この店で自転車を買ってもらったんです」
店主は驚いたように目を上げた。
「そうだったのか」
青年は続けた。
「父が、ここで。僕、すごく嬉しくて…」
言葉が少し震えていた。
店主は静かに聞いていた。
「その父が、先月亡くなりました」
青年は、濡れたハンドルを握りしめた。
「最後に乗っていたのが、この自転車で…だから、壊したくなくて」
店主はゆっくりと頷いた。
「大事にしてるんだな」
青年は小さく笑った。
「はい。帰り道、父とよく通ったんです。この店の前を」
店主は、奥に置かれた古い子ども用自転車を見た。
「うちの子も、もう帰ってこないよ」
それは、初めて聞く言葉だった。
青年は店主を見た。
店主は青年を見た。
雨の音だけが、店の屋根を叩いていた。
店主は青年の自転車をもう一度点検し、
最後に、ハンドルの端をそっと拭いた。
「帰り道、気をつけてな」
青年は深く頭を下げた。
店の前を、自転車がゆっくりと走り出す。
店主はその背中を見送った。
いつもと同じ帰り道。
でも、今日は少しだけ違って見えた。
青年は、雨の中で小さく呟いた。
「父さん、今日も通るよ」
店主は、店の奥で古い子ども用自転車を見つめていた。
誰も乗らなくなったその自転車のハンドルが、
雨の光を静かに反射していた。