「地域からハッピーシナリオを共に」をスローガンに、全国各地で地域に根ざした事業づくりに取り組むNEWLOCAL。
連載「We are NEWLOCALs」は、NEWLOCALに関わる一人ひとりに焦点をあて、その歩みや考えをたどっていくインタビューシリーズです。
今回話を聞いたのは、社員第1号としてNEWLOCALにジョインし、このたび卒業を迎える久野さん。そして、その3年間を立ち上げ期からともにしてきたのが、代表の石田遼さんです。
混沌とした創業期、さまざまな現場で積み重ねてきた経験、そして「いつか起業したい」という思いが、「いま、挑戦する」へと変わっていったプロセス。
前編では、二人の対話を通して、久野さんがNEWLOCALで何を学び、どんな時間を過ごしてきたのか。そして、「卒業」という選択に至るまでを振り返ります。
久野 遼
1996年東京生まれ。東京大学大学院で建築学を専攻。卒業後、都市計画行政コンサルタント、宮崎県日南市の建築設計事務所を経て、2023年に社員第1号としてNEWLOCALへジョイン。野沢温泉、丹後、小松など、各地の事業立ち上げに携わり、現在は新潟県上越市を拠点に活動している。
石田 遼
東京大学大学院で建築・都市設計を専攻。卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーにて、都市開発や公共政策を中心に、国内外の企業・政府の戦略策定・実行を支援。2022年、株式会社NEWLOCALを創業。
目次
- 社員第1号の「巣立ち」
- 「社員がいない会社」との出会い
- 一度立ち止まってからの決断
- 創業期のカオス
- 立ち上げ期をともにした仲間
- 起業家に必要な力が、育っていた
- チェックリストがすべて埋まったとき
社員第1号の「巣立ち」
ー社員第1号である久野さんが、NEWLOCALを卒業されるとのこと。今日、この場を設けた背景からお聞かせいただけますか?
石田 NEWLOCALは、「地域からハッピーシナリオをともに」というミッションのもとで、地域のリーダーと一緒に事業をつくってきました。その中で、僕らがずっと大事にしているのが、「地域でチャレンジする人を増やすこと」と、「人・金・知恵の循環を地域につくること」です。
とくに「人」という観点で言うと、NEWLOCALのメンバー自身が、「新しい地元民」として、さまざまな地域に入り、チャレンジしていく。そのロールモデルになることも、会社として目指してきました。
実際、これまでもいろんなメンバーがそれを体現してきましたし、その延長線上には、「会社の中で活躍していたメンバーが、今度は自分自身が地域リーダーとしてチャレンジする側に回る」という道も、当然あると思っていたんです。
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久野は、入社当初から「地域でチャレンジして、いずれ起業したい」と話していました。だから、いつかこういうタイミングが来ることは想像していて。
そのうえで、久野が“巣立っていく1号”になるというのは、会社にとってもすごく象徴的な出来事だと思っています。
単に「お疲れさまでした」と送り出すだけではなく、彼が何を考えてきたのか、そして僕自身がどう考えているのかを残しておきたい。そう思って、この場を設けました。
「社員がいない会社」との出会い
ーお二人の出会いから、振り返っていきましょうか。
久野 出会いは、直接的にはWantedlyで求人を見つけたのがきっかけでした。まず、「1号社員」を募集していること自体が珍しいなと思って。スタートアップって、だいたいは知り合いや人づてで創業メンバーが固まっていることが多い中で、その点にまず目が留まりました。
石田 そっか、「1号社員」って書いてたんだっけ?
久野 というか、「社員がいない」って(笑)。1人でやっていて、もう手が回らない、みたいなことが書かれている遼さんのnoteがあったんですよね。
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久野 当時、僕は宮崎県に住んでいて、まちづくり系のベンチャー企業で働いていました。ただ、「いずれ新潟の上越で起業する」という目標を持っていて。そのために、どんな環境で、何を学ぶべきか、という視点でキャリアを考えていました。
そんな中で、ゼロイチ性が強い環境であることに加えて、まちづくり事業でありながらも「ソーシャルグッド」に寄りすぎず、資本主義的にエクイティファイナンスを行い、ビジネスとして大きくしていくことを明確に掲げている。その点で、NEWLOCALはすごく貴重な存在に感じました。
ー当時、遼さんはどんなことを考えながら採用活動をしていたんですか?
石田 周りの人にも声はかけていたんですけど……正直、当時は、やっていること自体が伝わりづらかったんですよね。今でこそ説明しやすくなりましたけど、その頃は「地域で事業をやる」というコンセプトに、どんな人が興味を持ってくれるのかも、よくわかっていなくて。
なので、一旦Wantedlyに出してみよう、というくらいの感覚でした。友達にも話したりはしていたけど、「これだ」と思える人が、たまたま周りにいなかった、というのも正直なところです。
ーそんな中、ある日、久野さんから「話を聞きたい」と連絡が来たわけですね。最初の印象はどうでしたか?
石田 まず、「遼」という名前が一緒なので、「おっ」と思いました(笑)。
東大の後輩で、しかも宮崎の日南市という、まちづくりで有名な場所にいて。その前は都市計画のコンサルで働いていたんですよね。
久野 最初の就職先はそうでしたね。
石田 建築出身で、地域の文脈もあって、キャリアとしてもすごく理想的だなと思いました。率直に「いいな」と思ったのを覚えています。
ー久野さんは、遼さんと話したとき、どんな印象を持ちましたか?
久野 なんというか……「モメンタム」的なものを感じました。創業期特有の、エンジンがかかりまくっている感じというか。起業家としての“すごみ”、気迫みたいなものがあったんですよね。
今もそれは感じるんですけど、当時は特に、「ゼロイチフェーズのギラギラ感」が強かったなと思います。
ー遼さんと話してすぐ、入社を決めたんですか?
久野 そうですね。機会としてもすごく貴重だと思いましたし、話していて共通言語も多いなと感じていました。
石田 いや、でも1回断られてるんですよ。
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一度立ち止まってからの決断
久野 そうなんです。一度、辞退していて。最初に話したとき、遼さんはとにかく人手が足りなくて、「早く誰か採らなきゃ」というトーンも、ちょっと感じたんですよね(笑)。
石田 あはは(笑)。
久野 ただ、僕自身がまだ準備できていないな、という感覚もあって。勢いで決めるより、一度ちゃんと腹をくくる時間を取ったほうがいいなと思ったんです。
そこから1か月で、前職の上司と話したり、当時宮崎にいた、まちづくり系の起業家の方々に会ったり。そうやっていろいろな人と話す中で、自分のキャリアパスを改めて考え直しました。
もう一つ、遼さんから聞いていた話の中で、正直ピンと来ていなかった部分があって。投資家のチームの話や、資本政策の話など、経営レイヤーの話が、当時の自分には理解しきれなかったんですよね。なので、その領域についてのインプットもしていました。
ーNEWLOCALはいいなと思いつつ、準備期間がほしかったという感じですか?
久野 そうですね。行動力はありつつ、同時に慎重な性格でもあるので。自分なりに仮説を立てて、「本当にOKか」を検証してから答えを出したかった、という感じです。
石田 でも、僕の中では、あの時点で完全に「断られた」って思ってました。
久野 ちょっとメタ的な話をすると、要求値が高い求人だから、1か月くらいじゃ他に見つからないだろうな、とも思っていて(笑)。
いきなり地方に飛び込む前提ですし、求める条件に「地頭がいい」とかも書いてあったので。「少し待ってもらっても大丈夫だろう」と思って、ちゃんと考える時間を取りました。
石田 なるほど(笑)。
創業期のカオス
ーNEWLOCALへの入社直後は、どんな日々だったんですか?
久野 当時、野沢温泉の拠点はすでに立ち上がっていて、「GURUGURU」というバーの運営も始まっていました。さらに「野沢温泉ロッヂ」という宿泊施設がこれからオープンするというタイミングだったんです。
インターン生はいたんですが、現地でやるべきタスクがめちゃくちゃ多くて。しかも資金調達もまだクローズしていない状態で、投資家の方々との交渉も並行して進んでいました。
石田 そうだね。
久野 現場の実務も山積みで、経営レイヤーでも重要度の高いタスクばかりが並んでいる。
だから、僕が最初に野沢温泉に行ってやったのは……白樺(現在montとしてリニューアルした元旅館)の片付けです(笑)。
石田 そうだった(笑)。
久野 文脈も分からないまま、目の前のタスクをひたすらこなしていく日々でしたね。最初の1か月くらいは、キャッチアップに必死で。遼さんが残していた資料を片っ端から読んだり、人の名前を覚えたりしながら、「まずはこの環境に適応する」という感じでした。
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ー遼さん目線で当時を振り返ると、どうですか?
石田 いや、もう、めちゃめちゃでした。
管理部もなかったですし、そもそも社員を雇うこと自体が初めてだったので。ハローワークに行ったり、社会保険の手続きをしたり、「なるほど、こういうことか……」と全部手探りでした。
経費精算ひとつ取っても、仕組みがない。「これどうするんだっけ?」の連続です。
人が増えるたびに、毎回思うんですよ。「この人がいなかったら、どうするつもりだったんだろう」って。
少しずつルールや仕組みは整っていきましたけど、久野が入った頃は、本当に何もない、いちばん混沌としたタイミングでしたね。
立ち上げ期をともにした仲間
ーNEWLOCALでの3年間で、特に記憶に残っているエピソードはありますか?
久野 たくさんありますが、やっぱり野沢温泉の立ち上げ期が、いちばん大変でしたね。
施設を運営すること自体は決まっているのに、現場のチームがまったく出来上がっていない状態で。そこは本当に……きつかったです。
僕より先に現地に入っていたインターンの子がいて、すごく頑張ってくれていたんですけど、彼も相当大変そうで。よく一緒に温泉に入って、慰めていました(笑)。
遼さんも常に現地にいられるわけではなかったので、僕が入って、1人から2人になるだけでも、少しは違ったのかなと思います。振り返ると、やっぱりあの時期がいちばん印象深いですね。
石田 施設の立ち上げに加えて、現地メンバーの採用や育成も必要で、NEWLOCALとしての組織もまだ形になっていない。
だから、あらゆることをかなりのスピードで決断していく必要があったんですが、その中で久野が主体的に動いてくれたのは、本当に助かりました。
ーお話を聞いていると、久野さんはいつも冷静な印象がありますよね。そんな久野さんが、思わず熱くなった瞬間って、あったんでしょうか。
久野 そうですね……あえて挙げるなら、インターン生の卒業のときかもしれません。
野沢温泉と丹後、両方の立ち上げに関わってくれた子がいて。すごく仕事ができる人だったんですが、一方で学校の卒業が危うい状態だったんです。論文の締切1週間前に「まだ何も書けていない」と聞いたときは、さすがに驚きました。
ただ、NEWLOCALであれだけ頑張ってくれていたので、僕もどこか責任を感じていて(笑)。本人は半分くらい諦めている感じだったんですけど、「最後まで、やるだけやってみよう」と伝えました。
40本くらいある参考文献をざっと読み込み、「この論理構成ならいける」と整理して、あとは半ば強引に書き上げるまで伴走しました(笑)。
業務とは直接関係のない話なんですが、立ち上げ期を一緒に乗り越えてきたからこそ、そこまで踏み込めたんだと思います。正直、もう情の世界ですよね。親心みたいなものが芽生えていました。
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起業家に必要な力が、育っていた
ーNEWLOCALの仕事を通して、成長したと感じるのはどんな点ですか?
久野 いろいろありますが、やっぱり一番はストイックさだと思います。起業家に求められる要素の中でも、「GRIT(やり抜く力)」を、頭ではなく身体感覚として理解できるようになったことが大きいです。
創業者が熱意を失った瞬間に、事業は一気に崩れてしまう。だからこそ、成果がすぐに見えない状況でも、自分の熱量をどう保ち続けるかは、とても重要だと感じています。
たとえば、目標に届かなかったときも、それを単なる「失敗」として終わらせるのではなく、「学習の機会」と捉え直す。そうやって意味づけを変えながら前に進めるようになったことは、NEWLOCALでの経験を通して得られた成長だと思います。
ー遼さんから見て、久野さんの変化はどうですか?
石田 今だから言えるんですけど、「起業したい」という話は、正直、最初は話半分くらいに受け取っていました。起業するにしても、もっと先の話だと思っていて。たしか、「35歳くらいまでには」と言っていたよね。
久野 そうだった気がしますね。
石田 それが結果的に、6年くらい前倒しになった。そこは、「思い切った意思決定ができるようになったんだな」と感じたところです。
もちろん、仕事を通してできることが増えているのは見ていました。でも、「起業家として腹を決める」というのは、やっぱり実際にやってみないとわからない。
その一歩を踏み出して、しかも周りにサポートしてくれる人たちがすでに集まっている。その状態までつくれているのは、素直にすごいなと思いました。
久野 最初は、一般的なライフステージや体力面を考えて、「35歳くらいまでには」とイメージしていました。でも途中から、「20代のうちにやろう」と思うようになったんです。
正直、「若い」というポジションを取れることは大きいなと感じています。同世代の起業家を見ていても、ビジネスの完成度以上に、「若い人が本気でコミットしている」という事実そのものが、ポジショニングにつながっている側面があるなと思っていて。
それに、NEWLOCALでずっと「行動力がすべて」という環境に身を置いてきたので。あれこれ考えるより、最後はもう「決めの問題だな」と思ったんです。
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チェックリストがすべて埋まったとき
ーいざ「NEWLOCALを辞めて起業する」と決めるまでは、どんな経緯があったんですか?
久野 僕は、NEWLOCALにジョインするときも、それまでの就職先を選ぶときも、ずっと逆算思考で決めてきました。起業に必要な要素を、一つずつ集めていくような感覚だったんですね。
最初は新卒でコンサルの会社に入って、ビジネスの基礎力を学びました。その後、地方での事業に携わるために宮崎に移住し、ローカルベンチャーで1年ほど働いたんです。
そこで見えてきたのが、うまくいかないケースの多くは、個人の問題というより、ファイナンスの構造的な課題なんじゃないか、ということでした。たとえば地域おこし協力隊の方が入っても、事業として成立せずに戻ってしまう。あれも、構造の問題だなと感じていて。
そうした背景もあって、ファイナンスのアプローチが明確に違うNEWLOCALに来た、という流れでした。
NEWLOCALにいる間も、「これができたら起業にチャレンジできる」という、自分なりのチェックリストをつくっていて。それが達成できているかどうかを、確認しながら過ごしてきました。
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石田 じゃあ、自分の中では、全部チェックが付いたんだ。
久野 一応、そうですね。
最後に、小松で「komado」という宿の開業がありました。もちろん大変な面もありましたが、支配人を雇うことができたんです。地方で支配人を採用するのは、かなり難易度が高いことなので、そこは一つの達成感がありました。
さらに、そのタイミングで融資もおりて。僕の中では、そこが大きな節目になりました。実は、最後に残っていたチェック項目が「ファイナンス」だったんですよね。
石田 そういうことだったんだ。
久野 体制的にも、いまはカズトさんが小松を担ってくれていて、「任せられる人がいる」くらいの組織規模にはなってきたな、という感覚もありました。
そのタイミングで、自分のキャリアをあらためて見つめ直したんです。いまは新潟に移住して、副業として自分でも宿を運営していて。事業としても、一応は形になっている状態でした。
いろいろな条件が、少しずつ揃ってきている。そう感じたときに、「いまなんじゃないか」と思いました。
ただ、遼さんに打ち明けたときは、すごく寂しそうで。
石田 そりゃそうだ(笑)。
ーそのときの、遼さんの率直な気持ちは?
石田 正直、びっくりしました。でも、新しい事業ももう決まっていて、実際に動き出しているのを見て、「あ、ここまで来てるんだな」と思って。
僕自身も起業家なので、起業する人を止める立場ではないですし、サポートしてくれる人やプロジェクトも含めて、ちゃんと整ってきているのが伝わってきた。
それに、久野が言う通り、NEWLOCALでの仕事が一区切りついて、久野がいなくても回る状態をつくれていた。そう考えると、タイミングとしても「止める理由はないな」と思ったんです。
ーなるほど。でもやっぱり、寂しいですね。
石田 そうですね。NEWLOCALの1号社員だから。
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後編では、久野さんが活動拠点とする新潟・上越への思いと、NEWLOCALを離れた先に見据えているこれからについて、話を聞いていきます。
(つづく)
取材・文 塩冶恵子
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