「本を出すと、儲かるんですか?」
そう聞くと、バイネーム代表の井上さんは「儲かりません」と即答しました。
それでも、今年8月に幻冬舎から自著を出版する井上さん。タイトルは『デザイナー進化論 Forward Deployed Designer~』。UIデザインを専門とするデザインコンサルティングファーム・バイネームの代表が、儲からないとわかっていて本を出す理由とはなにか。本の内容からかかった費用まで、出版までの1年間を聞きました。

2026年8月3日発売 『デザイナー進化論 Forward Deployed Designer~』
本は儲からない。それでも出す理由
──今回、出版する本の概要を教えてください。
結論から言うと、デザインのノウハウ本というより、これまでとこれからのデザイナーのキャリアの作り方を書いた一冊です。そもそもデザイナーの語源から話を始めています。デザイナーは本来、自分で考えて課題に対してものをつくる側面が強かった。ところが近年はデジタルプロダクトが増え、デザイナーの役割が表層的な見た目に置かれがちになっています。これからのデザイナーは、そこから原点回帰しつつ、分業されてしまったスキルを越境して広げていく必要があります。それが話の根幹にあります。
その上で、AIが導入されてきた今、AIにできること・できないこと、人としての強みを出すべき部分はどこなのか、デザインの仕事においてなにが武器になっていくのかをまとめ、これからデザイナーがどんな力をつけていくべきかを示しています。
今回は出版社の営業の方が私のSNSなどを見てくれていたようで、声をかけてもらったのがきっかけです。仕事に対する考えや、会社が掲げている「年収1000万デザイナー」を実現するためのノウハウを発信していくのは良い切り口になるのではないか、という提案でした。
── 今回は企業出版とのことですが、本を出版するというのは儲かるのでしょうか?
今回は儲かると思って著書の出版に取り組んだわけではないですね。企業出版という契約形態であることもありますが、それを抜きにしても、本でしっかり収益を取るのはハードルが高いと思います。
※企業出版とは:企業や経営者が自社のブランディングや採用、営業などを目的に出版する本のこと。書籍の販売だけでなく、企業の認知向上や信頼獲得を目的としたマーケティング手法として活用されています。
──原価に対して利益を出すのは難しい商品なんですか?
初版が全部売れても、ほとんど儲けが残らない。それが多くの出版ビジネスの構造です。(中略)最初に刷った3000部すべてが売れたとしても利益は約100万円ほどで、投資した労力や時間を考えると割に合う金額とは言えません。1〜2万部程度売れて初めて、まとまった黒字と呼べる規模になる計算です。
また、日本のデザイナーは約20万人。その中でも頻繁に本を買う人は、1%と見積もっても2000人にとどまります。今回の出版には数百万円規模を投資していますが、全部売れても10分の1ほどしか回収できません。そもそも今回は1100部しか刷っておらず、利益が出る構造ではない前提で動いています。最初は出版社から3000部の提案を受けていましたが、デザイナー人口を踏まえてリスクは取らず、部数を絞りました。
── 儲からないとわかっているのにそこまでの初期投資をしてでも出版しようと思った理由はなんだったんですか?
一番の理由は、自分や会社への信用が欲しかったからです。定期的にブログやnoteなどで発信するのが得意な人は、そこで情報を発信して自分の信用をつくっていけます。しかし自分はそれがあまり得意ではありません。人間中心設計スペシャリストの資格は持っていますが、それくらいしか属性として見えるものがない。発信していないと、「この人はなにを考えているんだろう」と伝わるタッチポイントが少ないと感じていました。
そんな中で「本を出している」という情報があるだけで、デザインについてどこまで考えて取り組んでいる会社なのかを間接的に伝えられます。本を書いたことがある人というラベルがつくと、一定以上の仕事をやれる人だという印象もつく。自分が逆の立場だったとしても、同じようなの提案を2人からされたら、本を書いている人のほうに仕事を頼みたくなると思います。どうせなら著名な人から提案してもらった方が安心できるのではと、自分でもそう感じてしまいます。
会社にお金をプールしていても仕方がないので、それなら投資をして、代表自身が本を出すことをブランディングの一環にしたいと考えました。本を出したという実績は、この先もついて回るものになります。
39歳、「何者か」になりたかった
── 以前「何者かになりたい」という思いがあったと話していましたが、39歳というタイミングはこの挑戦に影響していましたか?
私は「何者でもないなぁ」とつくづく思っていたんですよ。最終学歴は専門学校中退で、高卒にあたります。美大を出ているわけでもなく、なにか有名な賞を受賞した経験もない。そういった部分で、キャリアに対する劣等感をずっと感じていました。実績や仕事の経験については努力してきた自信がありますが、対外的にはわかりにくいと感じ続けていました。本を書いて出版したという実績があれば、少し自分のアイデンティティが確立して「何者か」に近づけるのではないか、その領域における専門性を、評価してもらえる位置づけにできるのではないか、そう考えています。
また、今年39歳なので、ダジャレですが「サンキュー(39)」という意味を込めて、自分から情報を発信したり、周りに還元したりする一年にしようと思っています。かっこつけるよりも、自分らしく面白い年の取り方をしたいですね。
編集者から言われた、「答えが早すぎる」という一言
──実際に出版プロジェクトが始まって、一番驚いたことはなんでしたか?
一番驚いたのは、編集者から「答えるのが早すぎて面白くない」と言われたことです。
本を作っていく過程そのものは、ある程度Webの仕事と共通する部分があると感じました。一方で、今回は編集者とライターの西谷さんがついてくれていて、自分で文章を書くことはほとんどありません。話したことをまとめてもらい、それに対して自分が赤入れをして直していくという形で進めています。
編集者が何度かインタビューをしてくれたのですが、そのときに言われたのが「井上さんは質問したことに躊躇なくすぐ答えてしまう」ということでした。通常は、自分がなにをしたいのかという問いに著者自身が向き合いながら、悩んで答えを紡ぎ出していくことが多いそうです。けれど自分の場合は、聞かれた時点ですでに考えていることが多く、即座に答えが出てしまう。
WebやITの仕事では、感情や個人の本質をそのまま出すことはあまりありません。一方で本をつくるという作業は自己の投影に近く、自分の感情や本質を抽出したいと言われたのは驚きでした。もっと人間味や、自分という人間のあり方そのものを本に入れたい、そう言われたのが、「編集」という仕事の情熱を強く感じた瞬間でした。
──自己開示はできましたか?
できたと思います。編集者やライターと何度も打ち合わせを重ね、時にはバーで朝まで話し込み、お互いに理解を深めました。
特に自分をさらけ出すきっかけとなった出来事としては、新宿の地下にあるバーで話しているときに、流れでマスターのギター弾き語りに合わせてアカペラを披露したことでしょうか。自分はもともとストリートミュージシャンをしていた経験があるのですが、実際に自分のパフォーマンスを見せたことで、印象がかなり変わったと言われました。そうやって信頼を深めながら進めてくれたのは、良い経験でした。
今回お世話になった幻冬舎からデザイン関連の本が出ることはそれほど多くないそうです。そんな中、社内のデザインチームの人たちが、進行中の原稿を読んで参考にしてくれていると聞き、学びにつなげてもらえているのがうれしかったです。
出版にかかったのは約1年
──企画が動き始めてから完成まで、どれくらいの時間がかかりましたか?
去年の6〜7月ごろから話を始めて、ちょうど1年ほどかかっています。出版は2026年8月を予定していて、もともと1年後の出版というスケジュール感で進めていました。テーマ自体は大きく変わっていませんが、紆余曲折はありました。特にAIについて触れている部分は、インタビューから原稿に書き起こしてレビューを通り、自分の手元に届くまでに2〜3ヶ月ほどかかります。その間に、当時「まだAIにはできない」と話していたことが、実際にできるようになってしまうことが何度かありました。そのたびに内容を見直す必要がありました。
──出版社はどこまでサポートしてくれてたそうですが、井上さん自身はどういったことをしたんですか?
話をすること、そしてレビューをすることは前提として必要でした。本のタイトルをどうするかも、出版社と一緒に模索しました。今のところ決まっているタイトルは『デザイナー進化論』、サブタイトルが「フォワードデプロイヤードデザイナー」になりますが、これも最初は仮置きで、内容を作っていく中で何時間もかけてブレストして決めていきました。
編集者からも「本を出すなら新しい肩書きを作ってみては」という提案があり、出版後はその肩書きを掲げて第一人者としてやっていくのが、「何者かになりたい」という思いとも相乗効果があるという話になりました。そこから本のタイトル案をいくつも出し、議論を重ねながら絞り込んでいきました。ほかにも「アイディエーター」(AIを使いながらアイデアを出してクリエイティブをつくる人、という意味)という案も出ましたが、ぱっと見て意味が伝わりにくいという理由で見送りました。
「フォワードデプロイヤードデザイナー」は、フォワードデプロイドエンジニア(顧客の現場に入り込んで、開発から提案までを一気通貫で担うエンジニア職)という概念のデザイナー版にあたる言葉で、まだこの言葉を掲げているデザイン会社は少なく、またバイネームとして普段やっていることなのでしっくり来たタイトルです。
発信源として「本」を選ぶ理由
──情報の変化が早い時代に、あえて本という形で発信することについてどう考えていますか?
結論から言うと、本だからこそ残せる価値があると感じています。Web記事は手軽に書いて、すぐに公開できるという強みがあります。一方で、作り込まれていることは少なく、情報が古くなると価値が薄れていきやすい。本はアナログで手元に残るものであり、長い目で見れば、物理的なものをつくるために労力をかけたこと自体が価値として残ると感じています。
自分自身、今もWeb記事はよく読みますが、本も買います。デザイン関連の本だけでも70〜80冊ほど持っています。誰かの手元に自分の本が残ってくれたらうれしいですね。本は読み返しやすいというのも利点のひとつです。Web記事は情報が流れてしまうと読み返すことが難しいですが、本棚にあればなにかのきっかけで再度手に取る機会があると思います。自分自身も仕事の中で「あの本にこんなことが書いてあった」と思い出して、もう一度読み返すことがあります。繰り返し触れやすい環境という意味では、本の方が強いという体感があります。
これから企業出版を考える人へ
──これから企業出版を考えている人に伝えたい「企業出版のリアル」はありますか?
本を出すことをゴールにしてしまうと、本は書けないなと思いました。伝えたいことがなければ、ネタは出てこないと思います。ただ、言いたいことや書きたいことがあるのであれば、思ったよりも本という形で出すのは難しくないかもしれません。
まだ出版していないので、出版したことでどんな相乗効果があったのかは、現時点では体感として見えていません。あまり期待はしていませんが、それも含めて楽しみにしています。
──一番読んでほしい人は誰ですか?
AIを使い始めているけれど、デザイナーとしての強みをうまく活かせていない人には読んでほしいと思います。自分のキャリアがグラフィックやUIだけにとどまっていて、今後どうしていくべきか迷っている人にも読んでもらいたいです。反対に、AIを使いながらどんどん新しい提案ができている人や、デザイナーであり続けることに迷いがない人は、読まなくてもいいと思います。長くデザイン業界を走ってきたマネージャークラスやCDOクラスの人たちは、デザイナーが越境していかなければならないことをすでに肌で感じているはずです。そういう人たちより、今後への不安を感じている人の方が、この本は響くと思います。
特に、デザイナーを名乗りながらディレクションも企画も業務効率化のためのAI活用もこなしている人たちは、今後の方向性に迷いを感じることもあると思います。そうした人たちこそ、これからの時代に実を結ぶのではないかと感じており、ジェネラリストだからこそ出せる価値が、今は増えてきています。「なんでもできるけれど強みがないと言われる」人たちにこそ、この本を読んで「こういう働き方があるんだ」と知ってほしいです。
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