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松陰会舘という名前 。

「松陰会舘」ぱっと聞くと葬儀屋さんかコミュニティホールか と思われる社名は松陰神社地域の人が集まる場所をつくりたいという創業者の想いから命名されました。


創業者は新潟から上京し新宿にあったお風呂屋さんで修行の後、松陰神社前で銭湯(鶴の湯)を経営していました。昭和10年代松陰神社前にはパン屋(精養堂さん)、米屋(桜井米店さん)そして銭湯(鶴の湯)の3件くらいしかお店らしいお店はなかったそうです。

まちで1,2番目にTVを購入するくらい新しいものが好きだった創業者。またひとを集めるのが好きで毎日のように家には近所の人がTVを見に集まっていたそうです。

そんな創業者が松陰会舘にこめた想い。

「地域の人が集まる場所でありたい。」​

松陰会舘が設立された昭和35年頃はまちに人が増え始め新たにお店を始める人たちも多かった頃と聞いています。まちに暮らすひとたちのニーズに応えようと結婚式場やタクシー会社といった事業をやろうと最初は考えいたようで、おそらくですが同時代に始まった九段会館※なんかも参考にしていたのではないかと思います。松陰会舘という社名のもとでは銭湯とプロパンガス事業を当初は行っていたわけですが。その構想の中ではまちの中で人があつまる多面的な事業展開をしていくことをかんがえていたのではないでしょうか。

昭和40年代に入り鶴の湯の譲渡や高度成長もあり会社としてはガス事業、不動産大家業と各事業ごとの成長へと舵をきったことにより構想は名前だけに名残を残す形となりました。高度成長、バブル期とみんなが右肩上がりの世だった頃。人があつまることは当たり前になり人を集めるだけでなく人が欲しい物を作り提供することが求められ人々・企業は激しく競争をするようになりました。その傾向はバブルが崩壊したあとも変わらず利便性を求め世の中はどんどん進化し競争は更に激化。その結果、人が集まる場所が窮屈な場所となっていったのも事実だと思います。

商店街、会社 本当は同じ志をもった仲間の集まりだったはずなのに。回りはライバル。いつも競争。敵だらけ。松陰会舘は世田谷の人とまちに伴走する会社。ひととまちをつなげて未来をつくりたい。というようになったのはここ10年来のこと。そこには原点回帰し創業者の設立時の想い、構想を実現させようという面とこの名前の通り僕たちは地域の人たちが集まれる頼れる存在(場所)でありたいという面も持っています。このまちにおいて回りのお店、人は敵(ライバル)ではなく、みんな仲間にしよう。そして僕たちは無敵になろう。

※九段会館とは昭和32年開業、宿泊、食堂、結婚式場、宴会場、コミュニティホールを備えた施設。平成23年閉業。

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